アキバのつぶやき

2025年09月

2025.09.19

済生会病院の光と影

 済生会病院、名前を聞くと「地域医療を守ってくれている場所」「困ったときに頼れる病院」と思いたくなります。でも、その背後には、私たちが思っているよりずっと複雑な現実があることを、このたびのニュースが改めて暴き出しました。

 今年、北九州の済生会八幡総合病院では、入院中の90代の女性に対して、「適正な用量の約500倍」の劇薬が投与され、3時間後に患者が死亡したという報告があった。しかもそのことを、病院関係者が報告しなかった。
 このニュースを聞いて、「本当にこの病院に自分や家族を任せていいのか?」という恐怖と疑問が、胸に刺さります。500倍、という数字の異様さ。医療という人の命を預かる現場で、「報告しなかった」という隠蔽の可能性。これらは、単なるミスでは済まされないと思います。
 もちろん、済生会病院の全てが「悪」であると言う気はございません。歴史もあれば、公共性の重さもあります。だが、このような事故は、「光」の部分を覆い隠してしまいます。

 「地域公益の病院」であるだけに、信頼を裏切られたという思いが強くなるばかりです。
そして、不祥事は時折「お金や労働条件」の問題とも絡んでいる。例えば、岡山済生会総合病院では、未払い残業代の是正や、給与の男女格差など、従業員から「ここまで黙ってきてはいけない」と声が上がるような問題が明るみに出てきました。
 
 医療を支える人たちが疲弊していれば、当然ミスのリスクも上がります。
だからこそ私たちは、済生会病院を見るとき「善意」だけではなく、「透明性」「説明責任」「組織の内部の目」がどれだけ働いているかをチェックしたいものです。 病院のウェブサイトでの情報公開、報道での説明、公的な調査の有無、そしてその後の再発防止策などです。

 この度の劇薬事故は、「病院は安心できる場所」という幻想に、鋭いヒビを入れました。済生会に限らず、医療機関すべてが「信じられる存在」であり続けるためには、こうした不祥事をただ叩くだけでなく、どう改善し、どう備えるのかが問われます。
 私たちは、利用者として、地域住民として、そこの責任を放っておいてはいけないのではないでしょうか。

 これは、私たち不動産業界でも言えることです。様々な不祥事を他山の石として、しっかりと自社と自己の行動と言動を厳粛に内省していきます。

2025.09.18

明日に向かって!

 『明日に向かって撃て!』を、青年時代に観たとき、あのラストシーンが鮮烈に胸に焼きつきました。逃げ場のない銃撃戦の只中で、ブッチとサンダンスは笑っていた。

 未来などもう残されていないのに、彼らは最後の一瞬を「生きる」という選択で貫いた。若かった私は、その姿を無謀さや虚勢ではなく、むしろ生きる美しさ逞しさとして、受け止めた記憶があります。

 あの二人が追い求めていたものは、決してお金や名声ではありませんでした。時代の流れから取り残された自分たちの存在を、どうやって肯定するか。どうやって「生きる意味」を最後まで掴み続けるか。それこそが彼らの戦いの本質だったのだと思います。
 
 私たちは日々、生産性や、効率、合理性を求められます。無駄を削ぎ落とし、成果を最大化することが当然のように語られる。しかし人生の記憶に残る瞬間は、必ずしも効率的ではありません。あの二人が銃を抜き、絶望的な状況の中で前へ踏み出したときの姿は、合理性からは説明できない。けれども、そこに「人間の尊厳」がありました。
 
 ポール・ニューマンとロバート・レッドフォードが演じた二人は、時代に抗えなかった。しかし彼らの生き方は、観る者に「自分ならどうするか」を問います。明日を信じて撃つのか、それとも今の安全地帯に甘んじるのか。青年時代の私は、その問いに直面し、心をかき乱されたのです。
 
 そして初老の今になって思うのは、人生とは常に「撃つ」か「撃たない」かの選択の連続だということです。確実な未来など誰にもない。それでも歩を進めるかどうかは、自分の意思にかかっている。

 映画のラストで止まった銃声の瞬間、私たち一人ひとりが生きる意味を問われているのかもしれません。

2025.09.15

マラソンと人生

 マラソンという競技の本質は何か。42.195キロという距離をいかに自分のリズムで刻み、淡々と積み上げていくことにあるとします。ところが、先日の世界陸上東京大会の男子マラソンは、その本質をひっくり返すような、前代未聞の展開を見せました。

 タンザニアのシンブ選手とドイツのペトロス選手が、同じタイム「2時間9分48秒」でゴールイン。公式には同時、しかし写真判定でわずか0.03秒差。胴体が先にゴールラインを通過していたのはシンブ選手でした。ここに金と銀の明暗が分かれたわけです。
42.195キロを走り抜いて、最後の最後で0.03秒。これはいったい何を意味しているのでしょうか。


 普通に考えれば、マラソンは数秒、いや数十秒の差がつくのが当たり前。なのに、まるで100メートル走のゴールシーンをスローで見ているような、肉眼では判別できないドラマが生まれました。そこに、スポーツが持つ「偶然性の必然」が垣間見えます。


 私が面白いと思ったのは、勝者シンブ選手のコメントです。「勝ったと気づかなかった。(結果を見て)僕が勝ったんだと思ったよ」。彼自身が勝利を認識できないほどの接戦。ここにスポーツの深い真理があります。つまり、本人にとっての勝利体験と、外から見える勝敗の決定は、必ずしも一致しないのです。

 考えてみれば、人生も仕事も同じです。長い道のりやプロセスを積み上げて歩んできて、最後の最後に思わぬスプリント勝負がやってくる。しかも、そこで勝ったのか負けたのかは、自分ではよく分からないことが多い。
 結果は後から、第三者によって告げられます。私の仕事の場合は、折衝していた相続人さんの空き家が更地になっているとか、販売中ののぼりや看板が設置されていることになります。


 今回のマラソンは、そうした仕事の現実と、人生の縮図のように見えました。
マラソンで写真判定極めて異例だからこそ、私たちはそこに「問い」を感じざるを得ません。

 42.195キロの走行を積み重ねの果てに訪れる0.03秒の差。その僅差を決めるのは、体力なのか、精神力なのか、あるいは運なのか。答えは一つではないでしょう。ただ一つ確かなのは、選手たちが最後まで諦めずに挑み続けたこと。それこそが、このレースを「記憶に残る瞬間」へと変えたのだと思います。

 人生も思い通りにならないことが多い中でも、わずかな一歩でもいい、前に前に進めていくことに生きる意義があるのではないでしょうか。

2025.09.14

人を動かすエンジンについて

 人はなぜ働くのか、なぜ学ぶのか。根っこの部分を探っていくと、必ず「承認欲求」というものに行き当たります。人から認められたい、褒められたい、存在を見てもらいたい。これを抜きにして人間の行動を説明するのは難しい。経済学では、人は損得で動くとされますが、実際には損得の裏に「見られている自分」が顔を出しています。

 承認欲求というと、SNSの「いいね」に象徴されるような、浅い満足の追い求めとネガティブに語られがちです。でも本来は、人が社会を形成するうえで不可欠な動機づけの仕組みです。企業のなかで働く人の多くは、給与だけでなく「あなたの仕事は意味がある」と言われたい。その一言が、次の努力へとつながっていく。
 
 ただし厄介なのは、承認欲求には「外側」と「内側」の二つのレイヤーがあることです。外側は文字通り他者からの評価。これは環境次第で大きく揺れ動きます。上司が変われば承認の基準も変わる。だから外側の承認欲求だけに依存すると不安定になります。
 
 一方、内側の承認は自分自身が自分を認めること。今日はここまでやれた、自分の価値観に沿って選んだ、といった自己承認です。本当に強い人や組織は、この内側の承認を大事にしています。結果として外からの評価がついてくる。この順序を逆にすると、周囲に振り回されることになる。

 組織におけるリーダーシップも同じです。部下に「承認されたい」という気持ちがあるのは前提として、その欲求をどう健全に満たしていくかが重要です。おだてるのではなく、役割や成果を正しく言葉にする。これが承認の本質です。
 
 つまり承認欲求は、人間を動かす「燃料」みたいなもの。問題は燃やし方です。外の承認に一喜一憂して煙を出すのか、内の承認を基盤にして安定した炎を保つのか。私たちは日々その選択を行っているのだと思います。

2025.09.13

脳内ホルモンと経済

 あまり聞きなれない言葉として、「オキシトシン」があります。これは、信頼感や共感性を高めるホルモンです。母子の愛着ホルモンとして知られているようですが、実は組織や社会の在り方を考える上でも、大切なヒントを与えてくれるものです。

 人が信頼し合い、安心して関われる環境では、自然とオキシトシンが相互に分泌され、協力や共感が生まれます。その土台の上でこそ、人は創造的に働き、組織は力を発揮できるのです。
 
 一方で、私たちが長く信じてきた「競争こそ経済を発展させる」という考え方は、オキシトシンの視点から見ると必ずしも持続的ではありません。競争は一時的に生産性を押し上げるかもしれませんが、不安や警戒心を増幅させ、オキシトシンの分泌を妨げます。   結果として、人間関係はぎくしゃくし、信頼のネットワークが途切れてしまうのです。

 経済も組織も、人が互いに信じ合い支え合うことでこそ反映する。そう考えると、競争だけに依存する発想は限界を迎えているのではないでしょうか。現代のSDGsにつながりますね。

 では、どうすればオキシトシンを基盤とした協力的な経済や組織を育てられるのでしょうか。答えの一つは「小さな承認」と「共有する時間」です。日常のなかで「ありがとう」と声をかけたり、雑談や相談の時間を持ったりすることで、人は自分が受け入れられていると感じます。その安心感が信頼を呼び、信頼がさらに協力を広げていく。

 まさに、競争ではなく共感の連鎖こそが、組織を強くし、経済を持続させる原動力となるのです。ただ問題は、相互にそれを受容できる素養があるかないかです。だから、社会に出るまでにリベラルアーツの修養が重要なのだと思います。

 経済は数字の集合体に見えますが、その根底にあるのは「人と人との関係の総和」です。オキシトシンが生み出す信頼の循環を意識することで、組織は成果主義的な戦場から、人が安心して挑戦できる共同体へと変わります。そして、そのような組織の集合体こそが、競争ではなく共生によって繁栄する新しい経済の姿なのかもしれません。

 ポスト資本主義社会が、もう到来しているのではないかと強く感じながら、自身の修養に努力していきます。

2025.09.12

折れた煙草で分かるだろうか?

 中条きよしさんの「うそ」という歌がヒットしました。今でも口ずさむことが出来るぐらい、インパクトのある歌詞です。

 タバコではなく、世の中には、感情や状態を「色」で表現する、なかなか味わい深い言葉の文化があります。たとえば、経験の浅い若者を「青二才」と呼んだり、人の腹の底にある黒い企みを「腹黒い」と言ったりします。こうした比喩は、色という感覚的なものを通して、私たちの理解や共感をスッと深めてくれます。

 さて、「嘘」の色は何色か?おそらく多くの人が、「真っ赤な嘘」と答えるのではないでしょうか。これは感覚的にもしっくりきます。「真っ赤」と聞くと、どこか大げさで、あからさまで、隠しようのない嘘、そんな印象を受けます。
ただしこの「真っ赤な嘘」にも、ちょっとした言葉のトリビアがあります。サンスクリット語の「マハー(大きな)」が語源となり、それが漢字で「摩訶(まか)」と訳され、やがて「まっか」と誤解されたという説もございます。

 もしこれが本当だとしたら、「摩訶な嘘」という表現は、実は「とびきり大きな嘘」、つまり質・量ともにとんでもない嘘を指していたのかもしれません。この「摩訶な嘘」が、現実に公的機関で起きてしまった。しかも、それが科学捜査という極めて専門性が高く、かつ社会的信頼が強く求められる領域で起きたという点に、今回の問題の根深さがあります。

 佐賀県警の科学捜査研究所に勤務していた技術職員が、実際にはDNA型鑑定を行っていないのに、「鑑定した」と報告していた。これが7年以上にわたり、130件にものぼるというのです。さすがにこの事態には、誰もが目を疑ったはずです。
DNA型鑑定は、現代の刑事司法においてきわめて重要な役割を果たしています。そこに不正があれば、冤罪を生む可能性すら出てくる。

 科学的に見えるものの裏側に、不確かさや人間的な弱さが入り込んでいた。これこそが、「摩訶な嘘」たる所以でしょう。
今回の件で見えてくるのは、「技術の正しさ」と「人の正しさ」は、まったく別物だということです。どれだけ精緻な技術があっても、それを扱う人間の倫理観や誠実さがなければ、その価値はゼロになる。いや、場合によってはマイナスです。

 この技術職員は懲戒免職という処分を受けましたが、それで終わりではありません。問題は、なぜ7年ものあいだ、組織の中でその嘘が見抜かれなかったのか。言い換えれば、「内部統制」という、組織の仕組みと文化がどう機能していたのか、という点にあります。組織は、どこまでいっても「人の集まり」です。人がいる限り、ミスもあれば、嘘もある。その前提に立って、仕組みやチェックの体制をどう設計するか。
 
 加えて、「嘘はつかない」という最低限の倫理観を、どうすれば職員一人ひとりに根づかせられるか。そこにしか、本質的な解決策はありません。言い換えれば、「摩訶な嘘」を防ぐのは、「摩訶な仕組み」ではない。地味で、地道で、面倒な作業の積み重ね。


 誰かが見ていなくても、自分のやるべきことを淡々とやる。そんな姿勢が、実はもっとも強い信頼をつくるのだと思います。
「真っ赤な嘘」が堂々とまかり通る社会ではなく、「地味に誠実」が評価される社会へ。今回の事件は、その問いを私たちに突きつけています。

 マネジメントの父、ドラッカー氏の言葉に、「リーダーに必要な資質は真摯さ」とあります。蓋し名言ですね。

2025.09.11

学歴詐称問題に感じる「問いの質」

 静岡県伊東市の市長による学歴詐称疑惑と、それに端を発した市議会解散。この出来事をニュースとして消費してしまえば「不祥事の一つ」で終わります。しかし、そこで思考を止めずに「問いの質」を上げることが、本当の学びになるのではないでしょうか。

 第一の問いは、「信頼はどこに立脚するのか」という点です。学歴は、ある意味で社会が付与した「信頼のショートカット」です。しかし、実際の資質や行動が伴わなければ空虚な看板に過ぎません。では、信頼を担保する本質的な基準は何なのか。
 
 第二の問いは、「学歴への過剰な依存はなぜ続くのか」という問題です。社会は依然として学歴を価値判断の軸に据えています。これは本人にとっては誘惑となり、市民にとっては先入観を強化する仕組みです。この構造を変えない限り、同様の問題は繰り返されるでしょう。
 第三の問いは、「失われた信頼をどう取り戻すか」という点です。解散という制度上の手段は、一つのリセットにはなりますが、それが信頼の回復に直結するわけではありません。市民と行政が対話を通じて再び関係を紡ぐには、何が必要なのか。
 
 こうした問いを積み重ねていくと、この事件は単なるスキャンダルではなく、社会全体に向けられた「問いの鏡」であることが見えてきます。問いの質を高めることで、政治や行政を「他人事」ではなく「自分事」として考える視座が生まれるのではないかとお思います。

2025.09.09

人生と幸福について

 人生というものを振り返ってみると、突き詰めれば「幸福を求める努力の積み重ね」なのだと思いませんでしょうか。人は生まれながらにして、幸福を手にしているわけではありません。むしろ、幸福は自らの選択と行動によって形づくられ、更新されていくものであって、誰かから与えてもらうものではないのです。

 努力と聞くと、多くの人は「つらいもの」「我慢するもの」というイメージを抱きます。しかし、幸福に向かう努力は、必ずしもそうではありません。自分が本当にやりたいことに向けて挑戦するとき、そこには確かに苦労がある一方で、大きな充実感も存在します。努  力は単なる義務ではなく、幸福をつかむための自然なプロセスとも言えるとおもいます。
 
 大切なのは、「幸福」がゴールとして遠くにあるのではなく、努力そのものの中に幸福が宿る、という視点ではないでしょうか。仕事で新しい挑戦を重ねたり、家庭や仲間との関係を深めたりする過程で、人はすでに幸福の一端を味わっています。幸福とは、到達点ではなくプロセスに埋め込まれたものなのです。

 また、幸福の形は人それぞれです。ある人にとっては経済的な安定かもしれませんし、別の人にとっては自由な時間や、誰かと共に過ごす温かいひとときかもしれません。他人と比べることなく、自分にとって意味のある努力を続けること。それが人生を幸福にする鍵だと思います。

 結局のところ、人生とは「幸福を追い求める努力の連続」であり、その歩み自体が私たちを豊かにしてくれるのです。
幸福を一時でも放棄したときに、人は絶望を感じるのではないかと思います。

 どんな時でも、幸福を求めることに意志し続けることを、我が人生観としていきます。

2025.09.08

人間の年齢とは

 初老の域に達し、もうこれだけ生きてきたのかと、ふと思う時がございます。早いもんだなぁ!

 そんな時、本日の毎日新聞の「余録」が紹介していたジム・ヘンリー氏の物語に感動しました。それは、米コネティカット州に暮らしたヘンリー氏は、子どもの頃に読み書きを学ぶ機会がなく、漁師や大工として懸命に働き続けました。長年、家族にも秘密にしてきた識字能力の欠如を、妻の病気を機に打ち明けるに至ったといいます。

 しかし、彼の人生は90歳を過ぎてから、驚くべき変貌を遂げます。なんと90歳を過ぎてから孫の勧めにより字を学び始め、98歳という高齢で自伝小説「漁師の言葉で」を執筆し、世間の注目を集めたのです。彼は読み書きができるようになった時、「世界一豊かになったようだ」と感じたといいます。そしてさらに驚くべきことに、99歳で逝去する直前まで、2作目の執筆を続けていたというのです。

 ヘンリー氏の生涯は、私たちに学ぶこと、創造すること、そして表現することに、「遅すぎる」ということは決してないという、力強いメッセージを投げかけます。年齢を理由に可能性を諦めることなく、知的な好奇心と探求心、創造性を最期まで持ち続けた彼の姿は、私たち自身の内なる可能性が無限であることを教えてくれます。

 国際識字デーにちなむこの物語は、物質的な豊かさだけでなく、知的な活動と創造の喜びこそが、人生を真に豊かに彩る核心であると示唆するでしょう。

 私たちは、ジム・ヘンリー氏の生きざまから、人間の持つ潜在能力、特に創造性や知的好奇心に、年齢の制約はほとんど無意味であることを学ぶべきです。彼の物語は、すべての年代の人々に、新たな学びや創造への一歩を踏み出す勇気を与えてくれるのではないでしょうか。

 僅かでいいのです。もう年だからという常套句の言い訳をせずに、躊躇することなく新たな分野を開拓していきましょう。

2025.09.07

ただ乗りを許せない理由

  先月でしたでしょうか、キセル乗車の常習犯が逮捕されたという事件。驚いたことに、そのグループは、「大宮赤ラン軍団」と呼ばれる「撮り鉄」グループの大学生で、常習的に不正乗車を繰り返していたということです。本当にこういう事件は、怒りを強く感じます。

 そして、社会の中で生活していると、「あの人はただ乗りしているのではないか」と感じる瞬間に出会うことがあります。たとえば、職場で誰かが皆の努力に便乗して、成果だけを享受する場面や、地域活動で一部の人が労力を負担し他の人が享受する場面などです。人はなぜ、この「ただ乗り」に強い嫌悪感を抱くのでしょうか。

 第一に、公平感の侵害があります。人は、自分が負担しているのに他者が負担せず利益を得ていると、「ずるい」という感情を抱きます。この感情は単なる嫉妬ではなく、公平性を守るための根源的な反応といえます。

 第二に、信頼関係の破壊です。共同体は、互いに支え合うという暗黙のルールに基づいて成り立っています。にもかかわらず、ただ乗りをする人はそのルールを破ってしまうため、「この人とは一緒にやっていけない」と感じさせてしまうのです。

 第三に、自尊心の問題があります。自分が律儀に責任を果たしているのに、他人は何もせず利益を受け取る状況は、「自分の誠実さが利用されている」と感じさせます。その結果、不快感はさらに強まります。

 第四に、集団の持続性への不安もあります。もし皆がただ乗りを許すなら、誰も努力しなくなり、集団や制度は維持できません。これを本能的に察知するからこそ、一人のただ乗りも許したくないという心理が働くのです。
 
 結局のところ、ただ乗りを忌み嫌う心理は、単なる感情的な反応ではなく、公平性や信頼、自尊心、そして集団の存続を守ろうとする人間の本能に根差しているのです。だからこそ、私たちは日常のさまざまな場面でこの感情を経験するのでしょう。

 フリーライダーの存在を見抜けず、放置している組織は、「千丈の堤も螻蟻の穴を以て潰ゆ」を肝に銘じて、対応を怠ってはいけないですね。