アキバのつぶやき

2025.09.25

結果と成果の違い

 結果と成果。この二つはよく似た言葉ですが、実はまったく違うものを指しています。ビジネスの現場でも、この違いを取り違えると方向性を誤ってしまいます。

 「結果」とは、ある行動の直接的なアウトプットです。たとえば営業の月間契約件数やキャンペーンでの来店数。数字で測定でき、短期的に確認しやすいものです。写真のようにその瞬間を切り取った「点」の情報だといえます。

 一方で「成果」とは、その積み重ねによってもたらされる長期的な価値です。顧客からの信頼、リピート購入、紹介が生まれる仕組みの定着。これは時間をかけてしか見えてきません。成果はすぐに数値化できない場合も多く、むしろ「後から効いてくる」ものです。
 
 たとえば、営業担当が一度きりの契約を無理やり取りに行くと、短期的には数字という結果が出ます。しかし顧客体験を損ねてしまえば、長期的にその顧客は離れ、成果にはつながりません。逆に、短期的には件数が少なくても、顧客の課題を丁寧にヒアリングし、信頼関係を築いた担当者は、数年後に安定した取引や紹介という成果を手にする可能性が高いのです。
 
経営においても同じです。四半期決算での利益という結果を追うあまり、社員教育や新規事業への投資をおろそかにすると、将来の成果を失うリスクがあります。成果にこだわる経営は、結果を一喜一憂せず、時間を味方につけながら価値を積み重ねていく姿勢なのです。

 結果と成果は、信用と信頼の違いに似ています。結果主義とは表現せず成果主義といい、信用関係ではなく、信頼関係がしっくりと肚落ちします。ということは、判定時間をどこに置くかによって、関係という言葉に意味がもたらさせるのではないでしょうか。
 
 つまり、結果は「点」であり、成果は「線」。点が集まって線になるのですが、線の美しさや強さを決めるのは、そのつなぎ方にあります。成果を意識すれば、日々の結果は単なる数字ではなく、未来につながる布石に変わると信じています。一つ一つの行動の結果を、自分なりに解釈することを怠りなく、日々内省し、明日へつなげていくことが、積もり積もって、人生となるのでしょうね。
 

2025.09.23

国勢調査がやってきた!

 昨晩、自宅に帰りますと、ポストに国勢調査票と配布員さんの不在書類が投函されていました。それを見て、少し違和感を感じました。ドッグイヤーどころではない今日において、いまだに同じやり方を踏襲しているのかという事です。


 国勢調査と聞くと、多くの人は「また来たか」と思うかもしれません。5年に一度、総務省が行うこの一大イベントは、国家の基礎データをつくる極めて重要な事業です。人口動態や世帯の実態が政策の根拠となるのだから、やらないわけにはいきません。ここまでは誰もが納得するところでしょう。
 
 でも、その実施方法を冷静に見てみると、「これは本当に必要か」と首をかしげたくなる費用が散見されます。例えば、紙ベースの調査票を全戸に配布し、回収するための人員動員。調査員への手当、印刷費、配布・回収の物流コスト。さらにオンライン回答が普及した後も、紙と併用することで二重の仕組みが温存されています。結果的に「念のため方式」になってしまっているのです。
 
 もちろん「高齢者やネット環境のない世帯がいる」という事情は理解できます。ただ、ここは費用対効果を冷静に見直すべきタイミングに来ています。調査の目的は「全数を把握すること」ですが、実際には欠損データを統計的に補正する技術はすでに確立しています。全戸一律に同じ方法を強いるよりも、オンラインを標準化し、紙は希望者のみとする仕組みに転換すればよいのではないかとおもうのです。これだけで数百億円単位の節約は可能だと思います。
 
 加えて言えば、行政がすでに持っているデータベースとの連携を進めれば、調査票自体が不要になる領域もあります。住民基本台帳、税務情報、社会保障データ。これらを匿名化・統合して活用すれば、調査の精度はむしろ上がる可能性すらあります。技術的にも制度的にもハードルはあるが、少なくとも「ゼロベースで方法を再設計する」議論を始めることは避けて通れないでしょう。
 
 国勢調査のような国家的事業は、「とにかく例年通り安全に」という発想に陥りがちです。しかし、無駄を温存することは国民の負担を温存することと同義です。重要なのは「伝統だから続ける」ではなく「目的を果たすために最適な手段は何か」を問い直すことです。データ収集のあり方をアップデートすることこそ、次の国勢調査に向けて考えるべき論点だと思います。

 

2025.09.22

伝えるから、伝わるへ!

 ビジネスの現場でよく耳にするのが「ちゃんと伝えたのに、伝わっていない」という嘆きです。会議で資料を説明した、メールを出した、あるいはプレゼンをした。確かに「伝える」行為はやっています。にもかかわらず、相手の行動や反応は期待通りにならない。ここに、「伝える」と「伝わる」の間の大きな断絶があります。

 「伝える」というのは、発信者側の作業です。資料を作り、言葉を発し、データを並べる。そこには自己満足が潜んでいます。「これだけやったんだから、わかってくれるだろう」という淡い期待。しかし「伝わる」という現象は、受け手の頭と心の中で起きることであって、発信者がコントロールできる範囲は限定的です。つまり、伝えることと、伝わることは別のゲームなのです。

 では、この溝をどう埋めるかが、課題となります。私の拙い経験から言えば、コツは「相手の物語に乗せる」ことです。人間は情報で動くのではなく、意味づけで動くといわれています。数字や論理は必要ですが、それがどのように相手の利害や感情に接続されるかが勝ち負けの分水嶺です。

 たとえば新しい企画を通したいなら、「市場シェアが伸びる」だけでは弱い。「あなたの会社の強みと直結している」あるいは「この取り組みが将来のキャリアにプラスになる」といった相手のストーリーに結びつけたとき、初めて情報が血肉化して、「伝わる」になります。


 さらに言えば、伝えるときの余白も重要です。すべてを説明し尽くすより、相手が自分の頭で補完できる余地を残した方が、理解が深まります。映画のラストシーンを観客の想像に委ねるように、「伝わる」体験は受け手の参加によって完成するのです。

 結局のところ、「伝える」は技術で、「伝わる」は現象。話し方の著書などを読んだり、話し方教室に通って技術を磨くことは、それは大事ではありますが、現象を引き起こすには、相手の立場や文脈に徹底的に感情移入し、相手の物語に寄り添う必要があると思います。

 「伝えたのに伝わらない」のではなく、「伝わる形に変換できなかった」と、考える方が生産的です。
要するに、伝えることは自己満足の出口、伝わることは相手の物語への入り口。この距離をどう設計するかが、ビジネスコミュニケーションの肝であり、本質だといえるのではないでしょうか。

2025.09.21

暗黙知を言語化する力

 今年の阪神タイガースは、めっぽう強かった。何十年と優勝のないBクラスに低迷していた過去が噓のよう。そんな阪神タイガースを語るとき、野村克也氏の存在感は圧倒的です。

 監督として迎え入れられた当時の阪神は、スター選手はいても組織としてはバラバラで、勝つための「型」を持たないチームといわれています。野村氏はそこで「ID野球」を掲げ、データと戦略を徹底的に植え付けていきました。企業経営で例えれば、属人的なひらめきに頼るワンマン経営から、仕組みを組織に埋め込むマネジメントへの転換といったところでしょうか。

 その薫陶を受けた一人が、現監督の藤川球児氏である。藤川監督は、圧倒的な直球で観客を魅了しながらも、野村監督から「球児、お前の真っ直ぐはなぜ打たれないのかを自分で説明できるか」と問われたという。

 つまり、才能を持つ選手にこそ、その根拠を言語化し、再現可能なモデルに落とし込め、という要求です。これは経営や営業の現場でもよくある話で、成功した事業や商談を「勘と経験」に帰着させるか、それとも誰がやっても成果が出る仕組みに昇華できるかで、その後の持続性は大きく変わってきます。
 
 現監督としての藤川氏の姿を見ると、彼はまさにその教えを継承しているのではないでしょうか。若手投手に「なぜストレートが通用するのか」「配球にどんな意図があるのか」を問い、ただの感覚に頼らない指導をしていると聞きます。選手の身体能力をリスペクトしつつ、それを再現可能な「知」として共有する。この言語化と構造化の作業こそが、チームを強くします。
 
 野村克也から藤川球児へ!この継承は、単なる世代交代ではなく、「暗黙知を形式知にする」という学習プロセスの連鎖です。経営でも組織開発でも同じです。偉大な個人の力を「再現可能なシステム」に翻訳することが、組織が持続的に強くなる唯一の道筋であると思います。阪神の歴史を通じて見えてくるのは、野球という競技を超えて、普遍的な経営の原理そのものなのではないでしょうか。

2025.09.20

バカと無知を読んで・・・。

 橘玲さんの『バカと無知』を読んで印象に残るのは、人間は自分の無知を知らない、というシンプルかつ残酷な事実です。私たちは合理的に意思決定をしていると思い込みがちですが、現実はそうではない。むしろ「自分は分かっている」という錯覚こそが、組織や経営における最大のリスクになるのです。

 経営の歴史を振り返ると、この構造は至るところに見つかります。たとえば米国のブロックバスター。2000年代初頭、すでにネットフリックスがオンライン配信という新しいモデルを提示していたにもかかわらず、「DVDレンタルというビジネスは盤石だ」と信じ込み、変化に背を向けました。

 その結果、数年後には市場から姿を消しました。ここには「自分たちは分かっている」という過信と、無知を直視できなかった経営の失敗がはっきりと表れています。

 日本でも同じです。かつての携帯電話業界では、国内市場で勝っているメーカーが「ガラケーは日本の独自進化だ」と自信を持っていました。ところがiPhoneという外部からの衝撃が来たとき、対応が遅れ、市場は一変した。これもまた「自分は知っている」という錯覚が招いた典型例です。

 『バカと無知』の重要なメッセージは、「人は無知である」ことを前提にして問いを立て直す必要がある、という点です。経営において本当に大切なのは、将来を正しく予測することではありません。未来は誰にも読めないのですから。
 大事なのは、「自分たちが知らないことは何か」「どこに思い込みがあるか」「私たちのノンカスタマーは誰か」という問い持ち続けることです。

 問いの質を上げることで、経営の質も高まります。逆に言えば、問いを間違えれば、どれほど優れた戦略や計画も無意味になります。人間がバカで無知であるという前提を受け入れること。それは経営者にとって、自分の思考を謙虚に保つ最も現実的な方法論なのです。

 結局のところ、『バカと無知』は人間の限界を笑う本ではありません。むしろ「限界を前提にした賢さ」の手がかりを与えてくれる本です。過去の企業の失敗は、私たちの愚かさの証拠でもあるし、それを認めて問いを立て直せば、未来に向けての武器にもなる。バカと無知を嘆くのではなく、それを引き受ける。

 そこに経営と人生の共通点があるのだと感じました。