アキバのつぶやき

2025.08.03

序破急の世界

 本当に毎日暑い日が続きますね。夏といえば、野球。


 本日は、一見すると野球の話題ですが、組織の戦略を考える上で示唆に富む現象について考察いたします。それは、かつて「ピッチャー、振りかぶって第1球を…」という実況と共に親しまれた「振りかぶる(ワインドアップ)投法」が、「絶滅危惧種」になりつつあるというものです。

 この「振りかぶる」という動作は、NHKアナウンサーの松内則三氏によって定着した表現だそうです。その本質は、舞踊の「序破急」に通じる、ゆっくりとした初動から投球へと至る緩急の美学にあります。故・豊田泰光氏も、往年の大投手たちが大きく振りかぶっていたと語るように、これは単なる技術を超えた「型」であり、ある種の芸術性さえ帯びていたと言えましょう。


 では、なぜこの伝統的なフォームは減っているのでしょうか。私は、これをスポーツ界における「効率性」と「リスクマネジメント」の追求、ひいては「最適化」の結果ではないかと思っています。組織経営においても、迅速性やデータに基づいた合理的な意思決定が重視され、往々にして伝統的な時間のかかるプロセスが見直されています。投球フォームも、より効率的で身体への負担が少ない形へと変化進化し、安定したパフォーマンスの追求が優先されているのかもしれません。


 「振りかぶる」投法が減少している状況は、企業が伝統的な強みや「型」を、変化する市場環境の中でいかに再評価し、戦略的に適応していくかという経営課題と深く関連してくると思います。 かつての成功体験や美学が、イノベーションや効率性という新たな価値基準の前で、どのように変容を強いられるのか。これは、まさに会社が直面する普遍的なテーマです。


 この野球の現象は、伝統と革新、効率と美学のバランス、そして組織の戦略的適応のあり方について、私たちに深く考える機会を与えているのではないでしょうか。

2025.08.02

居座る理由、そして問われる信頼の本質

 参議院選挙で3連敗中の石破茂首相。これだけ民意が明確に示されているにもかかわらず、政権の座にとどまり続ける姿勢には、正直、経営の観点から見ても違和感があります。


 企業であれば、株主総会で否決されれば経営陣は交代します。それが市場原理ですし、信任の可視化です。しかし政治の世界は少し事情が異なるようです。

 一方で、静岡県伊東市の田久保真紀市長にも学歴詐称の疑いが取り沙汰されています。疑惑があるなら潔く説明責任を果たすのが基本であり、それが組織の信頼を守る行動だと私は思います。しかし、それに背を向けて“居座る”という選択肢が取られるのは、何を守ろうとしているのか、市民目線では見えにくくなっています。
 

この2つの事例に共通するのは、「説明しないこと」ではなく、「説明できない状態にあること」なのかもしれません。説明責任というのは、法律上の義務である前に、信頼の設計図だと思っています。政治もビジネスも、信頼で成り立っています。顧客に対して、あるいは市民に対して、「なぜ自分がそこにいるのか」を語れないリーダーは、長期的に見て支持を失っていきます。

 日本社会では、「辞めること=責任を取ること」と見なされがちです。しかし、本当に大切なのは、辞める前に“語ること”なのではないでしょうか。自分の言葉で、自分の立場を説明し、それでもなお支持を得られるかどうかが、リーダーの器を測る試金石になるのだと思います。


 信頼とは、透明性と誠実さの上にしか築けません。政治の世界にも、企業経営と同じように「市場」があるとするなら、それは“有権者の目”という市場です。


 その市場は今、冷静にリーダーたちの行動を見つめています。

2025.08.01

「亡○○の相続財産」が語る、所有とは誰のものか

 登記簿を眺めていて、「亡○○の相続財産」と記されている物件に、初めて出会いました。この表記は、単なる死亡の記録ではございません。それは、所有権の空白地帯が生まれていること、そして相続という制度がまだ“実装”されていないことを意味しています。

 通常、不動産の名義人が死亡すると、その所有権は法定相続人に分割されます。しかし、それは法的に「当然そうなる」だけであって、登記簿に反映されない限り、第三者には効力を持ちません。ですので、「亡○○の相続財産」として登記されている不動産は、誰が最終的な所有者なのか、確定していない状態にあるということです。


 これは、資産の“稼働停止”を意味するのではないでしょうか。企業で言えば、所有者不明の設備が工場に眠っているようなものです。活用も売却もできず、税金だけが発生し、時間だけが過ぎていく。登記簿上でこのような「相続財産法人」のような状態が続くのは、経済合理性から見ても望ましくございません。
 
 さらに重要なのは、「亡○○の相続財産」という登記は、相続人全体が共有する財産であるという構造を持つことです。この状態から財産を動かすには、すべての相続人が関与し、相続登記を済ませる必要があります。ということは、「相続」ではなく、「争続」が発生していて相続登記がいつになるかが、相当の期間で想定できないと考えられます。
 嫡出子以外の非嫡出子が存在している可能性があるのではないだろうか。相続財産は誰か一人が勝手に処分できないので、もしややこしい過去があると,ちょっとでも身に覚えがある方は、早めに相続登記の手続きを始めてください。

 
 もしこのような状況であれば、自分では相続登記手続きすることは困難です。司法書士にお願いするかしか、相続登記の完了は難しいです。また、手間が相当かかりますので、高額の費用を覚悟しておいてください。

2025.07.31

本質を見抜くには!

 本質を見抜くには、どうすればよいのでしょうか。最近、そんなことをよく考えるようになりました。何かを選ぶとき、ニュースを見たとき、誰かと話すとき。ふとした瞬間に「これはどういうことなのだろう」と、自分の中で立ち止まる時が多くなりました。これはこれで私は評価しております。すぐに反応して感情的に言葉を発することほど愚かなことはないと、強く自身に言い聞かせているので、安堵しています。

 
 たとえば、働き方改革という言葉を耳にすると、私は「それは誰のための改革なのだろう」と考えてしまいます。便利で聞き心地の良い言葉ほど、現実の複雑さや矛盾を包み隠してしまうことがあります。ですから私は、その言葉の奥にいる「困っている誰か」の姿を想像するようにしています。

 日常の中にも、本質を感じる場面があります。以前は値段の安さでモノを選んでいましたが、最近は少し高くても長く使えるものに惹かれるようになりました。素材や作り手の背景、そして使い心地。表面には見えないものこそ、本質なのかもしれません。

 また、焦らずに観察することも大切だと思っています。すぐに答えを出さず、相手の言葉の行間を感じ、出来事の背後にある流れを静かに見つめる。そうした姿勢が、本質を見抜く感覚を養ってくれるのではないでしょうか。
 もちろん、私自身、何度も間違えます。見抜いたつもりでいたことが、実は早とちりだったと気づくこともあります。でも、間違いに気づき、考えを修正していけることもまた、本質を見抜く力の一部だと信じています。

 大事なのは「見抜こう」とする姿勢そのものなのかもしれません。枝葉に気を取られすぎず、物事の幹を見つめる。世の中も、人との関係も、自分自身も。そうやって静かに向き合った先に、ようやく見えてくるものがあるのだと思います。

2025.07.30

優遇

 自分は特別な扱いを受けていると思うと、それはそうだ!と思う人と、そんなわけないだろう!と思う人に二分されます。偶々、テレビで徳勝龍の優勝インタビューを観ました。


「自分なんかが、優勝していいのでしょうか?」


とても謙虚で、日本人好みの発言ですね。


ですが、内心では大半の方が、前者を認識されるのではないでしょうか。自尊心というものが、人の心の奥底に存在します。だからこそ、混沌のこの世に、なんだかかんだといいながら、生き続けることができるとも言えます。 


 最近、「外国人が日本で優遇されすぎているのではないか」という声をよく耳にします。確かに、住民税を納めていない外国人が無担保で起業資金を得たり、生活保護や医療制度を利用しているという話がメディアやSNSで拡散されると、不公平感を抱くのも無理はありません。


 ただ、少し立ち止まって背景を見てみましょう。まず、こうした制度は、戦後の日本が国際社会の一員として果たしてきた役割に根差しています。たとえば、外国人留学生への奨学金支援は、将来の国際的な架け橋になる人材を育てるという目的で始まりました。ある意味、外交戦略の一部でもあるのです。

 また、少子高齢化が進む日本において、労働力不足は深刻です。介護や農業、建設など、国内人材だけでは支えきれない分野が増え、外国人の力が不可欠になっています。そのため、生活基盤の整備や制度面での支援が強化されてきたという事情もあります。

 もちろん、制度の運用において不備や抜け穴があることは否定できません。とくに生活保護や健康保険などは、「準用」とされているにもかかわらず、実質的には日本人と同等の扱いがなされている例もあるようです。ここには、制度設計の曖昧さや行政の形式主義が影を落としています。

 ただ、本質的な問題は、「外国人が優遇されている」というよりも、「日本人が十分に支援されていない」ことなのかもしれません。日本人学生が奨学金で借金を背負う一方で、外国人留学生には給付型の支援が手厚くある。このギャップに、不公平感が募るのは自然なことです。
 
 こうした感情を一部の政党が「日本人ファースト」という形で表現し、有権者の共感を得たのも、ある意味では当然の流れと言えるでしょう。今こそ、冷静に事実を見つめ、制度の見直しを進める時ではないでしょうか。