アキバのつぶやき

2025.08.18

お墓参りには、生花と造花どちらをお供えしますか?

 今年のお盆は、お墓参りに行けませんでした。お彼岸には、妻と行けるといいですが、ダメなら一人で行こうと思っています。
さて、ふとまようのが「お供えする花は生花がいいのか、造花がいいのか」ということです。私は毎年この時期になると、妻にどこで生花を買う?と相談します。

 何と言いましても生花には、その時々の季節感や香り、色合いのやわらかさがあります。お墓に供えた瞬間、しっとりとした空気が漂い、故人との距離がぐっと縮まるように感じられます。ただ、真夏の暑さや強い日差しの下では、せっかくの花も数日でしおれてしまうことがあります。遠方から帰省してお墓まいりをした後、すぐにはまた来られない方にとっては、その儚さが少し心残りになるかもしれません。

 一方、造花は手入れの必要がなく、長くきれいなまま保てます。最近は造花の質も上がり、遠目には生花と見間違うほどのものもあります。特にお墓が人里離れた場所にあり、頻繁に足を運べない場合には、造花は実用的です。ただ、やはり香りや瑞々しさはなく、無機質で季節感という点では生花に到底及びません。

 そこで私は、車で1,2時間程度の距離にお墓がある方は、お盆やお彼岸のお墓まいりのときだけは生花を供え、その以外は造花に替えるというのが良いのではないかと思うのです。お盆の期間は故人を想う気持ちを生花であらわし、その後の管理や美観は造花で保つ。これは現実的で、かつ気持ちの区切りとしても、良い方法だと感じます。

 そもそも大切なのは、生花か造花かという選択ではなく、その花を供えるときの気持ちです。どちらを選んでも、そこに込めた思いはきっと故人に届くはず。お墓の前で手を合わせる時間、そして花を選ぶひととき。それを、届けたいという心。それらすべてが、お盆という節目にふさわしい大切な行いではないでしょうか。

 私はありがたいかな、1時間程度の移動で、それぞれのお墓がございますので、お彼岸には生花をお供えしよっと。

2025.08.17

知識と知性の違い

 あっという間に、夏季休暇が過ぎ、本日より出勤です。
私事では、家人が足を骨折して約1ヶ月過ぎ、実家への帰省、ご先祖様のお墓参りも行けず、近くのショッピングモールと、読書三昧の休日でした。

 
 そんな中、知性と知識ってどう違うのだろうと、ふと思うことがありました。

 この二つは似ているようでいて、まったく別物です。知識とは、情報や事実の集積です。学校の勉強や読書、仕事の経験などを通じて私たちは膨大な知識を得ます。しかし、それはあくまで材料・素材に過ぎません。不動産業では、仕入物件のようなものですね。


 知識が多ければ多いほど良い、というのはある意味で正しいですが、それだけでは不十分です。なぜなら、知識は状況に応じて使いこなさなければ価値を生まないからです。

 一方、知性とはその知識を整理し、関連付け、必要なときに適切な形で引き出す能力です。さらにいえば、知性は知識を活かすための判断力であり、創造力でもあります。同じ情報を持っていても、人によって結論や行動が異なるのは、知性の差があるからです。ビジネスの現場では、この差が成果に直結します。不動産でいえば、物件を多く仕入れればいいというものではなく、付加価値をどれだけ付けて、市場に受け入れて頂ける価格で提供できるかが大切です。

 知識は努力すれば比較的容易に増やせます。ですが、知性は一朝一夕では身につきません。経験から学び、失敗を分析し、異なる分野の知識を組み合わせて新しい視点を生み出す。そういったプロセスを繰り返す中で、知性は磨かれていきます。私自身、不動産業界で多くの判断を下してきましたが、必要だったのは単なる知識よりも、むしろ「この情報をどう解釈し、どう行動に移すか」という知性でした。

 また、知性は感情や倫理観とも深く結びついています。正しいことを選ぶ勇気、長期的な視点を持つ冷静さ、そして他者の立場を理解する想像力。これらは数字やデータだけでは測れません。AIでは代替できません。知識だけではなく、こうした人間的要素も知性の一部なのです。

 結局のところ、知識は「何を知っているか」、知性は「それをどう使うか」です。そして、変化の激しい現代において、本当に価値を生むのは知性です。知識を集める努力を怠らず、その使い方を日々考えること。すなわち、インテリジェンス力が求められる。

 
 それが、これからの時代を生き抜くための鍵だと私は思います。

2025.08.09

自己診断の誤謬

 私たちは、とかく「自分の実力」を過大にも過小にも見積もる生き物です。過大であれば傲慢になり、過小であれば臆病になります。どちらも成長を止める毒です。そこで、なぜこの二極的な自己評価を、私たちはくだすことになるのでしょう。それは、幼少の育った環境ではないかというのかが、私の仮説です。

 私は、実力というものは「自分が思っているより、外の世界での評価が正しい」と思っています。つまり、どれだけ自己分析をしても、最終的には他者の目が現実を突きつけます。試験の点数、作品の評価、商売の売上、事務的処理の巧拙など、これらは無情なまでに数字や結果で示されます。人間は主観的な存在ですから、自分を冷静に評価するのに並外れた客観性が必要です。だからこそ、現実世界に身を置き、その反応を受け止めることが必要なのです。
 

 若いころの私は、自分の仕事は他者を凌いだ、卓越したスキルを要していると思っていました。ところが、ある上司に、一蹴されました。「そんな手法では、得先に歓迎されない」と。屈辱と暴力をうけました。ですが、その一言と受けた行動で、私は自分はまだ、営業の第一線に君臨する存在であるという力を、持っていないと悟りました。人はこうして、外からの冷たい風にあたって初めて、自分の背丈を知るのではないでしょうか。


 また、実力は「過去の最高到達点」ではなく、「今の平均値」で測るべきです。かつての栄光にすがる人は多いものです。(歪んだ、他力による実績)によるかもしれないけれど、実力とは常に現在形で問われます。今日できなければ、それはあなたの実力ではない。残酷ですが、それが事実です。
 
 さらに、自分の実力を知る方法の一つは「限界を試す」ことです。今の自分に少し背伸びを強いる課題に挑み、その達成度を見るのです。自分ができる安全な範囲でしか動かない人は、自分の限界もまた真の実力も知ることは出来ません。多少の失敗を恐れず、泥をかぶる覚悟が必要です。

 結局、自分の実力を知るとは、自意識から離れ幻想を剥ぎ取る作業です。自己陶酔の世界から己を引き離し、甘い慰めも、過去の幻想的輝きも、全て脇に置き、今という現実の結果と評価に向き合う。その勇気と決断を持つ人だけが、次の一歩を踏み出せるのではないでしょうか。


 私は、アルコールが好きで、仕事を終えて家で酩酊しているときは、おそらく自己陶酔しているのでしょう。ですが、日中の業務を遂行しているときは、自己に酔うことだけは戒めて、他者に貢献できているのか、またそれに最大限の努力と知力を動員し、課されている仕事を勤しんでいるかを、自問自答していきたいと思うのであります。

2025.08.08

節目

 人生には、誰にとってもいくつかの「節目」と呼べる瞬間があります。入学、卒業、就職、結婚、転職、退職…。今年は日本が原子力爆弾を投下された戦後80年という節目。

 こうして並べてみると、節目というものは一見、外から与えられるイベントのように感じられます。しかし実際には、自分の中で「ここからは別のステージに進む」と決めた瞬間こそ、本当の節目なのだと思います。

 節目は、単なる通過点ではありません。むしろ、それまでの自分を総括し、これからの自分をデザインするための貴重なチャンスです。振り返りと展望の両方を持てる機会は、日常の中ではそう多くありません。だからこそ節目は、意識的に迎えることが大切と思うのです。

 私自身、これまで何度も節目を経験してきました。安定的なサラリーマンから、変動の大きい不動産業界に転職を決意した時、新たな分野に挑戦を決断した時、そして思い切って環境を変えた時。振り返れば、どの節目も迷いと不安がありました。しかし、その不安の裏側には必ずワクワク感がありました。節目は変化の入口であり、変化こそが成長の母なのだと思います。
 

 節目をどう迎えるかは、自分の未来の質を決めると言っても過言ではありません。ただ流されるように過ぎてしまうのか、それとも自ら舵を切るのか。この差は、数年後に大きな違いとなって現れます。節目に際して、自分は何をやめ、何を始めるのか。何を守り、何を変えるのか。こうした問いを自分に投げかけることが、次の一歩を鮮明にします。
 

 また、節目とは、人生のリズムを作る拍子木のようなものです。響かせ方ひとつで、その後の歩みが軽やかにも、重くもなる。せっかく訪れる節目なら、恐れずに、勇ましく、そして楽しみながら超えていきたいものです。

2025.08.07

自分というものはないから

 最近、ふと目にしたタイトルに「自分というものは、ないから」というものがありました。
たったこれだけの言葉に、私は強い引力を感じました。


 これはおそらく、「自己とは何か」という人間の根源にかかわる問いを投げかけているのでしょう。
最初に思い浮かんだのは、仏教における「無我」の思想です。私たちは「自分」という一貫した存在があると信じていますが、仏教的には、それは単なる束のようなもので、常に変化し続ける関係性や現象の集まりにすぎないと思います。また、そう考えると、「自分にこだわる」ことが、むしろ苦しみの源であると言えるのです。


 よく言われてきた言葉で、「自分らしく生きろ!」がございます。そうだ!そうだ!と、その時は妙に納得させられる言葉ではありますが、「自分らしく?」、「そういわれてもなぁ!」というのが正直なところではないでしょうか。

 テクノロジーの現代社会に生きる私たちは、SNSや組織、家庭など、無数の「役割」を演じる中で、本来の自分を見失いやすい時代にいます。ですので、「本当の自分はどこにいるのか」と問い続ける人も多いとおもいます。


 そんな中、「自分というものはない」と言い切ることで、むしろ自由になれるのではないか。そんな逆説的な視点が、このタイトルには含まれているように感じました。

 自分を探し続けるのではなく、自分は常に変化し、構築されていく存在だと受け入れる。そうすれば、「こうあるべき」という呪縛から解放され、もっと軽やかに、日々を柔軟に生きられるのではないでしょうか。

 「自分というものはないから」。これは否定ではなく、再定義の入り口でと考えるのです。固定された「私」あるいは「己」にしがみつくのではなく、流動する「私たち」、「我々」として世界に関わっていく。


 そんな生き方こそが、今を生きるヒントなのだと思います。