アキバのつぶやき

2026.01.12

もしスーモが撤退したら!

 もしドラではないですが、もし明日、突然スーモがなくなったら、不動産仲介業者の多くは、まず青ざめるでしょう。弊社もスーモに広告を依頼しています。自社のホームページだけでは、なかなか集客がままならないのが現状です。

 これは、不動産業者であれば皆さん同じ思いではないでしょうか。それだけ、リクルートさんの戦略がすぐれているということの証明です。集客の大動脈が一夜にして断たれる。問い合わせ件数は激減し、営業会議では「どうする?」という言葉だけが空回りする。けれど、この思考実験はとても示唆的です。

 スーモは広告媒体であると同時に、業界の業務プロセスそのものになっています。物件情報の整理、写真の撮り方、キャッチコピーの書き方、価格の見せ方。すべてが最適化されてきました。言い換えれば、不動産仲介の価値創造が、プラットフォームに外注されてきたわけです。

 これは「戦略の不在がもたらす合理性」です。個々の仲介業者が独自に集客力を高めるより、スーモに乗るほうが合理的。結果として、みんなが同じ土俵に並び、価格と反響数で競う世界ができあがりました。効率は高いが、差別化は消える。よくできた仕組みです。

 では、スーモが消えたら何が残るのか。残るのは、地域での信用、顧客との関係、そして「この会社に頼みたい」と思わせる理由です。つまり、本来は最初から持っていなければならなかった競争力です。

 面白いのは、スーモがある限り、それを鍛えるインセンティブが働きにくいことです。広告費を払えば、一定の反響が来る。短期的には正しい意思決定です。しかし長期で見ると、自社の物語や顧客資産は蓄積されません。これは便利さがもたらす典型的な罠です。

 戦略とは「やらないことを決める」ことだと言われます。もし本気で「スーモがなくなった世界」を想定するなら、いま何をやらないかが見えてきます。反響数至上主義、物件数競争、値下げ合戦。これらをやめたときに初めて、仲介業者としての独自性が立ち上がる。

 おそらくスーモはなくならないでしょう。だからこそ、この問いは意味があります。なくならない前提に安住するか、なくなっても生き残る前提で仕事を再設計するか。不動産仲介業者にとっての本当の分岐点は、そこにあると思い日々変化することに挑戦していきます。

今日も、「アキバのつぶやき」に来てくださってありがとうございます。

2026.01.11

あけおめ退職って、モウムリ!

 年明け早々に「退職しました」という報告がSNSに流れる。いわゆる「あけおめ退職」です。勢いがあって清々しい、と感じる人もいれば、無責任だと眉をひそめる人もいるでしょう。しかし、ここで大切なのは善悪の議論ではなく、「なぜこの現象が繰り返し起きるのか」という構造を考えることです。

 まず、年末年始という区切りは、人の意思決定を過大に後押しします。これは合理的というより、心理的な装置です。一年を振り返り、新しい年に「何者かになりたい」という気分が高まる。その高揚感が、退職という不可逆的な意思決定を正当化してしまう。戦略論的に言えば、これは「感情が主導権を握った意思決定」です。

 一方で、企業側の視点に立てば、あけおめ退職は突発的な事件ではありません。むしろ、静かに蓄積されてきた不満や違和感が、年末年始というトリガーで表出した結果にすぎません。突然辞めたのではなく、「とっくに辞めていた」のです。物理的に席を立ったのが年明けだった、というだけの話です。

 問題は、退職そのものではありません。本質的な問いは、その人にとって「辞めること」が戦略になっているかどうかです。次の選択肢が曖昧なまま辞めるのは、自由ではなく単なる不確実性の増幅です。選択肢が増えるどころか、むしろ減ってしまうケースも多い。

 戦略とは、やらないことを決めることだと言われます。退職も同じです。何をやらないのか、ではなく、「何に集中するために辞めるのか」が言語化できているかどうか。ここが曖昧なままのあけおめ退職は、後から効いてきます。

 新年は希望に満ちた季節です。しかし、希望は戦略の代わりにはなりません。気分で辞めることはできても、構造からは逃げられない。あけおめ退職という軽やかな言葉の裏側には、いつも重たい現実が静かに横たわっています。

 だからこそ、辞めるかどうかよりも、「なぜ今なのか」「その先で何を取りにいくのか」。この二つを自分の言葉で説明できるかどうかが、あけおめ退職を単なるイベントにするか、意味のある転機にするかの分かれ目なのだと思います。

2026.01.10

私のカレンダー

 私のカレンダーは、世間のそれと少しずれているような気がします。祝日や記念日はきちんと赤く印刷されているのに、なぜか私の生活は、そこではあまり区切られません。むしろ、天気の変わり目や、身体の調子、ふとした言葉に引っ張られて、一日が始まり、終わっていきます。
 
 若い頃は、カレンダーは未来のための道具でした。
締切、約束、旅行の予定。先に書き込まれた予定が、私を前へ前へと押してくれました。空白は不安で、何も書かれていない日は、少し怠け者になったような気がしたものです。けれど年を重ねるにつれて、カレンダーの役割は変わってきました。書き込む文字は減り、その代わり、消せない記憶が増えていきます。

 病院の予約日、法事の日、誰かの命日。未来よりも、過去と静かに向き合う印が多くなりました。
それでも、空白の多い月を見ると、ほっとする自分がいます。予定がないということは、何も起きないという意味ではありません。むしろ、予定外のことが入り込む余地がある、ということなのだと、今は思います。思いがけない電話、久しぶりの来客、突然の散歩。そういうものは、カレンダーには書き込めません。

 私はときどき、終わった日付を指でなぞります。何をしたか思い出せない日もあれば、胸の奥が少し重くなる日もあります。それでも、その一日一日を越えて、今ここにいる。その事実だけが、カレンダーの裏側に確かに積み重なっている気がします。

 来月のカレンダーは、まだ白いままです。無理に埋めようとは思いません。余白があるから、季節は入り込み、人の気配も忍び込む。私のカレンダーは、予定表というより、生活の余韻を受け止める紙なのかもしれません。

 今日という日も、いずれは小さな数字になります。けれど、その数字の中に、確かに私がいたことだけは、忘れずにいたい。そんな気持ちで、私は今日もカレンダーをめくります。

2026.01.09

アリよさらば!

 組織の慣性が引き起こす「死の渦」、つまり不祥事の連鎖を止めるのは、ルールや管理の強化ではありません。むしろ、ルールを増やせば増やすほど、アリたちは「ルールを守ること」というフェロモンに縛られるのと同様に、ますます思考を停止させてしまいます。

 では、リーダーはどうすればいいのか。それは、現場に対して「筋の良さ」を問い続ける、極めてアナログな対話に集約されると私は考えています。
デス・ミルを止めるリーダーの「3つの問い」、身も蓋もない言い方をすれば、不祥事が起きる現場では「商売としてのセンス」が霧散しています。そこにあるのは「計算」だけです。

 リーダーが投げかけるべきは、その計算をストップさせ、個人のセンスを呼び起こすための問いです。
1. 「それは、人間として不自然ではないか?」データが綺麗に揃いすぎている、あるいは何年も全く同じ傾向が続いている。そんな時、リーダーは「素晴らしい成果だ」と褒める前に、「これ、ちょっと不自然じゃない?」と首を傾げる必要があります。 アリの列から離れる最初の一歩は、この「違和感」を言葉にすることです。合理的な計算(スキル)では導き出せない、「何かおかしい」という直感(センス)を組織に共有することが、偽造の温床となる「空気」を壊します。

2. 「もし今日、この業務をやめたら誰が困るのか?」慣性で動いている組織では、手段が目的化しています。「検査すること」自体が目的になり、その先の「安全」が忘れ去られています。 「この書類、本当に誰かの役に立ってる?」という問いをあえて投げかける。もし答えに窮するようなら、そこにはデス・ミルのフェロモンが溜まっています。目的を再定義する問いは、組織の硬直をほぐす特効薬になります。

3. 「その仕事、自分の子供に誇れるか?」最後は、究極の「美意識」の問題です。効率や利益といった「数字のロジック」から一度離れ、「それはカッコいい仕事か、ダサい仕事か」を問う。 捏造や改ざんは、例外なく「ダサい」行為です。リーダーが日常的に「商売の美学」を語り、ダサい行為を許さない姿勢を見せることで、社員は「フェロモンをなぞるだけのアリ」から、自らの意思で歩く「商売人」へと戻ることができるのです。

2026.01.08

法改正にどう対応していくのか。

 木造二階建て住宅でも構造計算書の提出が必要になって、一年近くになります。「安全性が高まって良いことだ」と反射的に思う人も多いでしょう。もちろん、それは間違っていません。ただ、ビジネスや制度を少し引いて眺めると、話はそう単純ではないように思います。

 これまで木造二階建ては、日本の住宅市場における“量の王者”でした。圧倒的な数が建ち、仕様規定という簡便なルールのもとで、設計・申請・施工が高速に回っていた。言い換えれば、「そこそこ安全で、たくさん建てられる」仕組みが最適化されていたわけです。そこに構造計算書の提出義務が、昨年の4月より加わった。これはルールの変更というより、前提条件の書き換えに近い。


 制度を作る側の論理は分かりやすい。
・地震リスクは依然として高い
・木造でも倒壊すれば被害は深刻
・ならば計算によって安全性を可視化すべきだ!いずれも正論です。問題は、正論が現場でどう機能するか、です。
 
 一方で現場では何が起きているか。
構造計算ができる人が足りない。
審査する側も混んでいる。
結果として、建築確認申請が遅れる。
 これは安全性の問題ではなく、処理能力の問題となります。制度は一段階レベルアップしたのに、プレイヤーの人数も道具も、そのまま。これでは渋滞が起きるのは当然です。興味深いのは、こうした遅れのコストが、どこに帰着するかです。最終的には施主が待たされ、場合によってはコストも上がる。しかし施主から見れば、「なぜ遅れているのか」は分かりにくい。

 すると、不満は制度ではなく、目の前の設計者や工務店に向かう。ここに、制度変更の“静かな摩擦”があります。本来この改正は、「木造住宅をきちんと工学的に扱いましょう」というメッセージのはずです。それ自体は、木造住宅の価値を引き上げる方向の話でもあります。にもかかわらず、運用が追いつかないと、「面倒になった」「遅くなった」という負の印象だけが残る。

 これは業務の流れが想像できていない、所謂、ストーリーがまだ完成していない制度ととれます。安全性向上という価値は正しいです。だが、その価値が施主や現場にとって「意味のあるもの」として腹落ちするまでの物語が、まだ設計されていないと感じてなりません。

 構造計算書の提出が当たり前になる時代は、止められません。問題は、それを「ただの手間」にするのか、「住宅の質を語る言語」にできるのか。その分かれ目は、制度そのものよりも、それをどう説明し、どう回し、どう納得してもらうか、そしてその運用の知恵にあるように思います。

 正しいことは、正しく回ってはじめて価値になる。木造二階建ての構造計算義務化は、まさにその試金石なのかもしれませんね。