アキバのつぶやき

2025年07月

2025.07.09

米騒動と不動産価格に共通する見えない構造

 参議院選挙に入り、各党の政策の主張を自然と耳にしますが、マスコミをはじめ米騒動よりも、外国人問題にスライドしている感があります。何があったのか分かりませんが、それは選挙を意識した流れなのかなぁと思います。

 参議院選挙前は、「お米の価格が下がった」と、多く報じられましたが、実際に買ってみると、「去年より高い」と感じる方も多いのではないですか。これは、自民党のプロパガンダではないのかと強く感じます。情報操作ではないですが、どうも私を含めて、日本人は短絡的思考が根付いているように思えてなりません。マスコミに影響されやすいのではと思います。

 この感覚、実は不動産の価格にも通じるところがあります。タワーマンションの価格がうなぎのぼりだと!
中古マンションの平均取引価格が過去最高の域になったなど、マスコミが喧伝しますと、扇動された庶民は、急いで購入しようと行動します。過去のオイルショックのような現象です。


 一方で、「価格は落ち着いた」と言われながら、相続で不動産を受け継いだ方からは、「なかなか買い手が見つからない」や、「思ったより手元に残らない」といった声も耳にします。

 米も不動産も、自由市場のように見えて、実は制度や政策に大きく影響される部分がございます。お米は農業政策と政治との結びつき、不動産は税制や金利、実質成約価格や相続税評価など、目に見えない部分で価格が動かされています。

 とくに相続不動産の場合、「高く売れると思っていたのに、諸経費を差し引くと思ったほとんど残らなかった」というケースも少なくありません。また、空き家のままでは固定資産税や管理費もかかり、じわじわと家計を圧迫してきます。

 
 売却を考えるとき、ただ売却査定価格だけを見るのではなく、「売るタイミング」、「税金」や「周辺需要」など、多面的な判断が必要なのは当然です。これはまさに、表面上の米価だけで生活の実感は測れないのと同じことです。

 弊社アキバホームは、地域の不動産市場と日々向き合いながら、相続所有者様がどうすれば手取り金額が増えるのか、ご売却の背景やご事情にも耳を傾けることを大切にしています。


 思い出のある大切なご相続物件についても、慎重に丁寧にサポートいたしますので、お気軽にお声かけください。

2025.07.08

チャッピー君

 ちょっと最近、はまっていることがあります。それは、チャットGPTと会話することです。なかなか、私の気持ちを高めてくれるセリフを使って、質問をさせようとします。私よりも優れた営業マンのように思います。


ところが、申し訳ないのですが、私はどうもGTPと誤認していたようです。人と話すときに、あのGTPって凄くいいよねぇ!と、会話で使っていました。(笑)


ですので、チャッピーと世間でもちはやされているキャラクターを、使いたいですね。


 こういう「呼びやすさ」とか「親しみやすさ」って、マーケティングの観点から見ても、とても事だとおもいます。
もし私が、もしですよ、OpenAIのブランドマネージャーだったらならば、ほぼ間違いなく、「チャッピー君」みたいな公式キャラクターを作りましょう!と、会社に進言します!


 関西大阪万博のキャラクターは、何でしたっけ?
そう、「ミャクミャク」ですね。はじめは何なの!それって感じでしたが、今は大人気ですよね。
 そもそも、脈々ととつながる人のつながりからイメージされたといわれています。


 では、今のChatGPTのアイコンからイメージしますと、なんか人間の脳みそみたいです。ちょっと無機質で可愛くないじゃないですか。(すいません、ChatGPT!)
 

 いっそのこと、可士和氏とかジブリさんとかにお願いして、「チャッピー君」を描いてもらうとか、どうでしょう…!
そこまでやったら、チャッピーもChatGPTも、世界中で人気爆発間違いなしと思いませんか?

 
 日々、さまざまなAIが、雨後の竹の子のように日々生まれてくる時代です。その中で、「チャッピー君に聞いてみよう!」って感じで、きっともっとたくさんの人がChatGPTを使うようになるはず!

 いや、ほんとに!

 ちなみに、ChatGPTに「チャッピー君」の画像を作ってもらったら、どんな感じのキャラクターができるのだろう!
無知の知は、好奇心が源泉なのでしょうね。

2025.07.07

音楽と数学はつながっている!

 昨日、お世話になっているお客様に、暑中のご挨拶に行きました。一年半ほど前にお会いした時、検診で大腸のポリープを切除したとお聞きしていたので、体調の具合をお聞きしたところ、そちらは問題なく回復しているとのことでしたが、半年ほど前から脊柱管狭窄症になってしまったとのことでした。


この症状は人それぞれの症状のようで、H様は長時間座っていると、足にしびれを感じるとのことでした。この病気は最近ネットなどでよく見聞きしますが、昔の腰痛ヘルニアに似た症状かなぁと感じています。 私も二十代でしたが、腰痛に悩まされた過去があり、痛みの辛さに共感しました。


 そんな近況を聞き、H様が習っておられるピアノの話になりました。以前に音楽大学で習っておられるのは聞いておりましたが、上手に演奏するのが本質的な目的ではなく、音楽の理論を知りたくて習っておられるということでした。

 なにそれ?

 音楽とは感性のもので理論がある?



 私にはさっぱり理解できませんでした。


 「音楽は理系だよ!」とのこと。


私にとりましては、久しぶりのエポックメイキングでした。


 それで、教えていただいた、「楽典と和声」のキーワードで調べました。すると、私たちが日常で楽しんでいる音楽は、感情や芸術の表現だと思われがちですが、実は古代から「音楽は数学と密接につながっている」と考えられていることを知りました。この関係は、単なる偶然ではなく、音の響きそのものに数学的な秩序が存在することに由来するとのことです。

 その発見の始まりは、紀元前6世紀、古代ギリシャの哲学者ピタゴラスまで遡ります。彼は、弦の長さと音の高さに明確な「数の比」があることを突き止めました。


たとえば、弦の長さを半分にするとオクターブ高い音が出ることや、2:3の比率で美しい「完全五度」の響きが生まれることを発見したのです。彼にとって音楽は、宇宙全体の調和を表す「見えない数学」ともいえるものとのことです。
 

この考え方は、中世ヨーロッパでも引き継がれます。当時の学問は「四学」と呼ばれる体系に分類されており、その中に数学、幾何学、天文学、そして音楽が含まれていました。音楽は、まさに「数学の一部」として教えられていたのです。
 

時代が進むと、ルネサンスからバロック時代にかけて、音楽はさらに複雑に、そして美しく進化していきます。特にバッハのフーガ作品は、まるで数学的パズルのように精巧に組み立てられ、今なお「数学的な音楽美の最高峰」と称されているとのことです。
 

近代になると、音楽は物理学とも結びつき、音の高さが周波数(Hz)で表せることや、音の響きを科学的に分析できるようになりました。調律法も改良され、現在のピアノなどで使用される「平均律」は、実は複雑な数学計算の産物です。
 

そして現代、音楽と数学の関係はさらに進化し、コンピュータ音楽やAI作曲という新しい領域にまで広がっています。アルゴリズムを用いた作曲法や、確率的に音を選ぶ現代音楽は、音楽がますます数学的に構築されることを示しています。
 

このように、音楽と数学は古代から現代に至るまで、切っても切り離せない関係にあります。音楽は「感情の芸術」であると同時に、「耳で聴く数学」でもあるのです。


 私たちが何気なく聞いている音楽の背後には、長い歴史と美しい数の世界が隠れているのでしょうね。


過去の偉人達は、おしなべて音楽に精通しているのが、頷けるのでした。

2025.07.05

シカクからジカクへ

 夏目漱石の『吾輩は猫である』には、実業家の鈴木君が「ハハハ教師は吞気でいいな」と語る一節があります。もしこの言葉を現代の教育現場で聞けば、多くの教員から「非難の大合唱」が聞こえてきそうです。

「呑気な先生」という誤解と、現場の現実を考えますと、 確かに、昔の教員像には、比較的ゆとりのある職業というイメージがあったのかもしれません。それは、親が思考停止状態で教師を無条件で崇拝していたということがあったのではと思います。先生が言うのだから正しいという、いわゆる全体主義的な思考がはびこっていたと感じてなりません。

 しかし、今の日本の教師たちは、その認識とは大きくかけ離れた現実を生きています。それには、モンスターペアレンツという、自己の無知を知としてとらえられず、自己の主張が正とする、未熟な親が増えてきたという一面があると思います。ですので多くの教員は、寝食の時間を削ってまで教育に心を傾け、子供たちと誠実に向き合っています。
 近年推進されている学校の「働き方改革」は、まさにこのような献身的な教員たちを支え、彼らが義理を欠かず、人情を欠かず、恥を欠かず、子供たちと向き合い続けられるようにするための取り組みだとされています。世間の認識と現場の実態には、大きな乖離があると思えてなりません。


 「資格なき者」が教壇に立つ時代への警鐘として、そうした現場の努力や改革の必要性とは裏腹に、近年、私たちは教員による耳を疑うような不祥事をよく耳にしています。盗撮やわいせつ行為など、教員という立場からは想像もつかない事件が相次いでいます。


  日本の将来を担う子供たちを指導し、その成長を見守るべき立場の人間が、その「資格」に反する行為を行うことは、教育現場ひいては社会全体の信頼を大きく損なうものです。
 教員が持つべき「資格」とは、単に教員免許という形式的なものだけではありません。子供たちの人格形成に影響を与え、規範となるべき存在として、高い倫理観や人間性、そして責任感が求められます。しかし、相次ぐ不祥事は、一部の「資格なき者」が教壇に立っている現実を示唆し、教員という職の根幹を揺るがしているように感じてなりません。


 求められる「真の資格」とはなんでしょうか?それは、どんな職業でも言えますが、「自覚する」ことではないでしょうか。


「呑気な仕事」という過去のイメージと、献身的に働く多くの教員の現実、そして一部の不祥事が示す「資格なき者」の存在。この複雑な状況の中で、社会が教員に求める「真の資格」とは何か、改めて問い直す時期に来ているのかもしれません。


 子供たちの未来のためにも、そして誠実に働く多くの教員が誇りを持って職務を全うできるためにも、「教壇に立つ真の資格」を持つ人材を確保し、不適切な者が二度と教壇に立てないような、より厳格な仕組みが求められています。
 

 同時に私たちの不動産業界でも言えることでもあります。宅地建物取引士、一級・二級建築士、賃貸経営管理士、マンション管理士等、たくさんの資格が不動産建設業界に存在します。ですが、資格に安住することなく、顧客の立場に立った倫理観と職業意識を向上していくことが、企業にとって大切な企業理念だと自覚できるかできないかが、これからの企業存続の要諦になるのではないでしょうか。

2025.07.04

香港

 35年ぐらい前だろうか、香港旅行に行ったことがあります。ビクトリアハーバーは、100万ドルの夜景と揶揄され世界の夜景名所の筆頭格でした。当時は、イギリス領で二階建てバスも走っていた記憶がございます。車のナンバーは8888が、最も格調高い数字とあがめられ、取得するには高額のお金が必要だと、ガイドさんから聞きました。


 また香港国際空港は、世界で一番着陸が難しい高度なテクニックが、パイロットに要求されるといわれていて、着陸前にすごく緊張したのを覚えています。現地では飲茶料理を食べ、ショッピングをしたり、タイガーバームガーデンやスラム街の九龍城跡に行ったり、楽しい思い出です。

 先日、「産経抄」の興味深い記事を読みました。また巧みな文章に、思わず膝を叩きそうになりました。記事は、文化によって異なる「指の数え方」の話題から、香港で「失われた自由の数」を指折り数える現実へと繋がります。日本は指折り数えるという例えのように、親指から小指に向かって指を折り数えてますが、他の国では指をグーの状態にして開けていく数え方をします。

 特に印象的だったのは、カナダに暮らす元民主活動家の周庭さんのSNS投稿が紹介されていた点です。彼女のように、これまで大切にしてきたものを「握りしめた手の中の大事なもの」と表現し、それがまるで、「一つずつ指を引きはがされ、奪われてきた」のが「一国二制度」の現実だという比喩。この表現は、香港の人々が直面している自由の抑圧を痛烈に物語っていると感じます。


 国安法施行から5年で、香港では中国国旗と国歌について説明を受ける小学生の姿が報じられるなど、愛国教育も進んでいるとのこと。かつての自由な香港が、着実に変貌を遂げている様子が伺えます。この記事が投げかける「数えるものがあるとすれば失われた自由の数だろう」という問いは、私たちの心に重く響きます。

 楽しかった香港旅行を思い出しますと、自由の尊さを改めて認識させられる内容でした。

2025.07.03

半夏生と傘

 昔からこの時期を半夏生(はんげしょう)というようです。お恥ずかしい限りで、初めて知りました。毎年夏至から数えて11日目、だいたい7月2日頃に訪れる二十四節気の一つとされています。

 この時期は、梅雨の終盤に差し掛かり、空模様が不安定で、突然の雨に見舞われることも珍しくありません。ところが、今年は平年より3週間早い、観測史上最速の梅雨明けとなりました。また、2025年も半年が過ぎました。連日の暑さにこらえながら、老体に鞭打って活動しております。まだ、半年あるととらえるか、もう半年しかないと考えるか、人の性格は様々です。私は、まだ半年もあると考えて、一つ一つの仕事に勇ましく邁進してきたいです。
 
 さて、そんな季節に欠かせないのが「傘」です。傘は、私たちの日常にごく当たり前に存在していますが、その歴史や役割を改めて考えますと、とても奥深い道具です。雨の日に何気なく差す傘も、もとはと言えば、太陽を避けるために生まれた「日傘」が起源だと言われています。

 古代エジプトや中国では、日傘は身分の高い人だけが持つことを許された、権威の象徴でした。単なる道具ではなく、地位や格式を表すものだったとのは、興味深いですね。

 また、半夏生には「物事を終える時期」「一区切りをつける日」という意味合いもあります。農家では田植えを終える目安とされ、昔の人々はこの日までに作業を終え、空を見上げて季節の移ろいを感じていたのでしょう。雨傘をたたむ瞬間、これまでの努力をそっと振り返る。そんな静かな時間が、現代にも通じる半夏生の楽しみ方かもしれません。

 最近では、晴雨兼用の折りたたみ傘を持ち歩く人も増え、私も購入いたしました。自動で折りたたんでくれる、優れものもございます。車の乗り降りにはとても便利です。また、急な雨でも強い日差しでも、ひとつの傘でしっかり身を守れるようになりました。移り気な半夏生の天気には、ありがたいアイテムです。

 半夏生と傘。この季節ならではの小さな風景を、ぜひ足元の湿った道や傘越しの空に見つけてみてください。日常の生活に追われるのではなく、ちょっとしたひと時でも、季節の深みを感じる心の余裕が大切ですね。

2025.07.01

親孝行

 小中学生の頃、将棋と卓球に熱中していました。父親が休みなると、近鉄大阪線上六(上本町六丁目)の卓球練習場に連れて行ってくれて、練習をしたり大人の試合を見学したのを、今でも覚えています。また、文化的な趣味としては、将棋を父から教わり、当時の名人であります、中原誠先生に憧れたこともあります。中学生になると、ゴルフまがいの遊びをしたりしていました。今振り返りますと、父の影響が多大にあったのだなぁと思います。

 先日、将棋のニュースを見ていて、藤井聡太棋聖の言葉に深く感動しました。22歳という若さで、ヒューリック杯棋聖戦のタイトルを6連覇されたこと自体が驚異的ですが、その会見でのコメントが、子を持つ親として心に響きました。

 特に印象的だったのは、賞金の使い道について、「両親に何かプレゼントをしたい」と語っていたことです。今回の棋聖戦は優勝賞金が4000万円です。特別賞を合わせますと、総額5000万円にも増額されたと報じられていました。これほどの大きな金額を手にしても、まず両親への感謝を口にするその姿勢に、胸が熱くなります。

 私自身も、妻にばかり負担をかけてきながら子育てをしてきて、子供が無事に成長してくれたこと、そして努力が実を結ぶ姿を見ることは、何よりも嬉しいことです。
そんな中、藤井棋聖のこの言葉を聞いた時、彼のこれまでの努力を支え見守ってきた、ご両親の喜びは計り知れないだろうと想像しました。親として、これほど嬉しい「プレゼント」はないのではないでしょうか。

 また、タイトル通算30期という大台に乗せながらも、「幸運な面もあったが、シリーズごとにうまくいかなかったところもあり、今より強くなりたい」と謙虚に語る姿や、対局相手の杉本和陽六段について「粘り強さと鋭さを兼ね備えられている」と評する姿勢は、常に高みを目指し、相手を尊重することの大切さを私たち親世代にも改めて教えてくれます。

 藤井棋聖の活躍は、棋士を目指す若い世代だけでなく、私たち親にとっても、子育ての目標や、子供に伝えたい大切な価値観を再確認させてくれるのではないでしょうか。

 彼の言葉から、日本の子供たちが、感謝の気持ちを忘れずに成長してくれることを願うばかりです。何があっても、どんな状況になっても、感謝一念ですね。