アキバのつぶやき

2025年07月

2025.07.20

海の日と参議院選挙

 今年の夏は、三連休の「海の日」と参議院選挙が重なるという、少し不思議な週末です。祝日と選挙日が重なることは珍しくないが、こと「海の日」となると、なぜか象徴的な意味を感じます。

 海の日は、海の恩恵に感謝し、海洋国家である日本の繁栄を願う日として制定された祝日だそうです。一方で、参議院選挙は、国の未来を決めるための民主主義の象徴ともいえる行事です。このふたつが重なるというのは、日本という島国が、どのような航路を進むのかを国民自身が選ぶタイミングなのかもしれませんね。
 私たちは日々、海から多くの恵みを頂いています。漁業や貿易はもちろん、四季折々の自然の食物や景観、観光資源に至るまで、その恩恵は数え切れないものがあります。一方で、海は台風や高潮、津波といった自然災害の脅威とも隣り合わせです。環境問題や海洋資源の枯渇といった課題も無視できません。だからこそ、海を守り、未来の子どもたちに引き継ぐための政策や仕組みが求められている。
 その意味でも参議院選挙は、そうした国の根幹を支える制度や方針を決める大切な機会です。私たちは海の日に海へ出かけることもできるし、同時に投票所へ足を運ぶこともできます。この二つの行動は、どちらも未来への意思表示であり、つながっていると感じます。
 祝日を楽しむことも大切ですが、未来を選ぶ一票を投じることも忘れてはならないと思います。今年の「海の日」は、青い海を眺めながら、日本の行く先について少しだけ真剣に考えてみてはいかがでしょうか。

2025.07.19

夏休み

 枚方市の小中学校は、今日から夏休みに入りました。子どもたちにとっては楽しいシーズン到来。翻って、私の昭和の夏休みといえば、今のようなスマホもエアコンもない、けれど心は妙に豊かだった季節。

 
 朝はラジオ体操から始まり、首からカードをぶら下げて出席印を集めた。蝉の声がうるさいほど響き、朝の十時までは自宅から出てはいけないというルールがありました。朝の時間にできるだけ宿題をするようにとの計らいだったのでしょう。


 十時を過ぎると麦わら帽子をかぶって、林や森へ行って昆虫採集したり、川や池に魚釣りに出かけたものです。昼ご飯といえば、冷やしそうめん、冷やし中華。おやつはスイカ。


 午後は扇風機の前を陣取りながら宿題を広げるが、しばらくして結局は、高校野球を見たり、マンガを読んでしまう。夜は家の前の道路で花火、時には近所の盆踊り。今と比べて何もかもが不便だったけれど、そこには「待つ楽しみ」や「遊ぶ工夫」がありました。


 昭和の夏は、そんな手作りの時間が、ぎっしり詰まった、宝物のような思い出です。

2025.07.18

他国人への不動産売却は促進するべきか?

 近年、日本の不動産市場において「外国人バイヤー」の存在感が高まっていると聞きます。特に円安が進行するなか、海外投資家にとって日本の不動産は「割安」で魅力的に映るのでしょう。観光やビジネスで訪れた外国人が、日本の住環境の清潔さや安全性、交通利便性に惹かれ、投資や別荘用に物件を購入するケースも増加しています。



 また、インバウンドの回復も追い風となっています。京都や大阪、東京の都心部だけでなく、地方都市のリゾート地や温泉地でも、外国人向けの物件購入の動きが見られるようになりました。こうした需要を的確に捉えることが、これからの売却戦略において重要です。


 ただし、言語・契約慣習・税制など、売却側には一定の準備が必要です。英語による物件紹介資料、外国人でも理解できる重要事項説明、海外送金の手続き対応など、対応力が求められます。外国人購入者にとっては、日本の法制度が未知であり、丁寧なフォローが信頼につながります。


 一方で、外国人への売却は「高値での売却」を実現できる可能性があります。居住用というより投資用として評価されるケースでは、利回りや立地に強い関心があり、国内市場とは異なる視点から価値を見出してくれることも。売却先の選択肢を広げる意味でも、外国人市場へのアプローチは大きな可能性を秘めています。
 地域密着の不動産業者でも、翻訳ツールや海外不動産ポータルを活用することで、簡単に国境を超えた営業活動が可能となりました。「外国人だから」と尻込みせず、むしろ「新しい顧客」として積極的に働きかけることで、不動産の流動性を高め、眠っている資産に新たな価値を見出すことができるのです。

 
 ただし、周辺の住民との調和を第一とした不動産取引が求められます。売却後に居場所が分からなくなり、空き家になったり、修繕積立金の滞納などのリスクへの対応策も確立しておくことが大事かなぁと思います。

2025.07.17

不動産の譲渡税がゼロでも安心してはいけない!

 どうも、一般市民にとって理解に苦しみ解釈がややこしいのが、税金や、社会保険、年金です。収入と所得という意味合いも同じように思えて全く違った性質であるという事が、益々ややこしくしていると思います。


「譲渡所得ゼロ」でも収入とみなされる落とし穴として、今回は相続空き家の売却と各種負担の現状をつぶやいてみます。くれぐれも、微妙な問題ですので、関係省庁にご自身で最終確認をして下さい。


 相続した空き家を売却し、3000万円特別控除を適応し、譲渡所得がゼロ。ふつうはこれで税金も心配なし!やったー!と安心していませんか?実はここに、思わぬ落とし穴が潜んでいます。


 所得税や住民税は「所得」に対して課税されます。たとえば1000万円で空き家を売却し、取得費や諸経費を引いた上で3000万円控除を使えば、譲渡所得はゼロ。確かに税金はかかりません。

 しかし、住民税や社会保険料、扶養や年金の判定においては、「所得」ではなく「収入」が基準になる場合があるのです。つまり、非課税でも1000万円の収入があったと見なされ、翌年の国保料や介護保険料が大幅に上がったり、第三号被保険者の資格を喪失してしまうケースが起こりえます。

 不動産の譲渡税という税金はゼロであっても、「一時的な収入」として各制度に影響を与えることがあるのです。


 これが、譲渡所得控除の知られざる副作用です。相続空き家の売却前後には、税務署だけでなく市区町村や年金機構、所属の社会保険組合にも相談し、制度横断的な視点で、来年に備えておくことが大切だと思います。

2025.07.15

 「産経抄」の記事で、戦国時代の鍼灸専門書『針聞書』に描かれた「腹の虫」という概念に触れ、大変興味深く読みました。当時は病気が人間の腹の中に棲む虫によって引き起こされると考えられていたのですね。


 摂津国の鍼師、茨木元行が著した書物には、なんと63種類もの「腹の虫」が描き分けられ、その性質や治療法まで詳細に記されているというから驚きです。例えば「腰抜の虫」はオニヤンマのような形をしており、体内に侵入して腰の辺りを飛び回り、ぎっくり腰を引き起こすそうです。木香と甘草を内服することで平癒するといった治療法も記されていたとか。
 

 他にも猛牛そっくりだったり、鳥のようなクチバシを持つものまで、その姿は非常にバラエティーに富んでいたと知り、当時の人々の豊かな想像力に感嘆しました。長野仁さんの『戦国時代のハラノムシ』で、カラーの虫の絵と共に紹介されているとのこと、ぜひ見てみたいものです。



 この記事を読んで、ふと、幼い頃に虫に夢中だった少年時代を思い出しました。近所の公園や森で、カブトムシやクワガタムシを見つけるたび、胸が高鳴ったものです。今から考えますと、とても危険な場所でした。足を踏み外すと池に落ちる斜面を歩いたりして、昆虫に秘められた生命の神秘に、ただただ夢中でした。
 当時の人々が目に見えない病の原因を「腹の虫」という具体的な形に描き出したのは、まるで私たちが目の前の虫に驚きと好奇心を抱くように、未知への探求心からだったのでしょう。


 現代のサイバー空間にうごめく見えない脅威を「腹の虫」に例える、産経抄の文章構成に脱帽すると同時に、どの時代にも人間の根源的な営みに通じるものがあるように思えてなりません。


 時代を超え、未知を理解し対処しようとする人間の営みは、変わらないのだと、改めて感じさせられました。

2025.07.14

政治家の資質とは?

 私は、参議院選挙の投票日は、仕事ですので、先日の休みの日に期日前投票を済ませてきました。不在者投票という制度もあり、若干違うのだそうです。

 間もなく迎える参議院選挙は、私たちの未来を託す大切な機会です。近年、政治家の資質が問われる場面が増えていますが、その際にしばしば注目されるのが「学歴」ではないでしょうか。

 昭和の怪物首相といえば、故田中角栄元首相です。氏は、故郷の新潟から上京後、中央工学校夜間部を卒業していますが、世間には「尋常高等小学校卒」というイメージが強くありました。本人もこれを意識し、蔵相就任時にはエリート官僚を前に「私が田中角栄だ。小学校高等科卒である。・・・・。全ての責任はこの田中角栄が負う」と挨拶したとされます。ここに角栄氏の強い自負が感じられます。

 一方、静岡県伊東市長選で初当選したばかりの田久保真紀市長は、「東洋大卒」と公表しながら、実際には「除籍」だったことが発覚し、辞意表明に追い込まれました。当初は疑惑にまともに向き合わず、混乱を広げたことで、市民からの苦情が殺到したのです。

 さらに学歴と資質の問題を考える上で、能登半島地震を巡り「運のいいことに能登で地震があった」と発言し批判を浴びた自民党の鶴保庸介参院議員の例があります。彼は東京大法学部卒という高学歴を持ちながらも、どんな文脈であれ、被災地に寄り添う気持ちがあればあり得ない発言をしてしまいました。珠洲市を念頭に置いたと思われる地名を「たま、なんだっけ」と話したことも驚きです。
 これらの事例が示すように、政治家の学歴は、その人物を知る情報の一つに過ぎません。田中元首相のような、猛勉強と博覧強記の人で、官僚がその法律知識に舌を巻くほどの人物だったとしても、金権政治などを巡り毀誉褒貶が激しいことも事実です。 重要なのは、彼らがどのような価値観を持ち、どのような行動をとるか、そして困難な状況にどう向き合うか、という人間性や責任感ではないでしょうか。

 今回の参議院選挙では、「若い世代の投票率の動向」も注目されています。政治家を選ぶことは、未来の社会を形作ることに直結します。私たち有権者は、表面的な情報に惑わされず、各候補者の人となりや政策、実績、そして何よりも国民に対する誠実さを見極める必要があります。この選挙が、より良い社会への一歩となるよう、賢明な選択をしていきたいですね。

2025.07.13

昭和のなめ猫

 ニュースで石破首相の「国民をなめるな」という発言を耳にしたとき、「首相、大丈夫ですか?」とつぶやきそうになると同時に、真剣な顔で強い言葉を投げかけるその姿に、「おお、言うねぇ!」と、内心うなずいたサラリーマンは、きっと少なくないはずです。
 ですが、その「なめるな」という一言に、私の脳裏には昭和のキャラクターらが、よみがえりました。



そうです、「なめ猫」です。



80年代初頭、私が高校生だった頃、特攻服を着てリーゼントをキメた猫の写真が大流行していた。



「なめんなよ」という決めゼリフとともに、免許証風カードや下敷き、筆箱まで登場し、文房具売り場はなめ猫一色だった。猫がヤンキー姿で睨みをきかせているのに、妙にかわいくて、どこか憎めない。理屈じゃない、あれは一つの“空気”だった。



 さて、令和の今、石破首相が「なめるな」と口にした。背景には政府への不信感や、緊張感の欠如を指摘する空気があるのだろう。組織に身を置く身としても、「なめられたら終わりだ」と思う場面は確かにある。部下に、取引先に、あるいは世間に。
 なめられないためには、言動と姿勢に芯がなければいけない。
 とはいえ、あの言葉を聞いて“なめ猫”を連想してしまうあたり、自分もまだまだ昭和が染みついているのかもしれない。真面目な政治の話と、猫の写真を結びつけるのは不謹慎だと怒られるかもしれないが、ちょっとくらい遊び心があってもいいじゃないか。人生も、仕事も、まじめ一辺倒では息が詰まります。

 結局、「なめるな」というのは、立場や時代を超えて通じるメッセージなんだと思います。同年輩や少し上の真面目な大人を見て、昔はなめ猫の下敷きを持ってたかもしれないなんて想像しながら、お客様のお宅に向かうのでした。

2025.07.12

三角の覚悟

 先日、お客様とお仕事の話をしていますと、「儲けるには、義理を考えてたらあかんのや!」と。 その話を聞いて、次の言葉を思い出しました。


「義理をかく、人情をかく、恥をかく。これで三角。」

 これは夏目漱石のデビュー作、『吾輩は猫である』に出てくる一節です。ユーモラスな文体の裏に、鋭い人間観察が込められているのが出色です。
 これは登場人物の一人、迷亭(めいてい)氏のセリフとして知られています。彼は世の中のしがらみを、軽妙にかわしながら生きる人物で、この「三角」という表現で、人間が避けがたい三つの「欠く」を茶化しつつ、同時に深く洞察しています。
 現代でも、私たちは「義理」「人情」「恥」を日常の中で常に意識しながら生きています。会社の上司に対する義理、友人や家族への人情、そしてそれらを貫こうとして恥をかく。
 迷亭氏のようにすべてを笑い飛ばせればいいですが、実際にはそうもいかないのが世の中ですね。
 漱石の猫は、人間の矛盾や滑稽さをじっと見つめます。そして読者に、「あなたも、この三角で生きているのでは?」と問いかけてきます。耳が痛い!!
 人生には、完全な正解などなく、すべてを満たすこともできません。だからこそ、自分の「三角」をどう扱うかに、その人らしさがにじみ出るのではないでしょうか。
 この名言は、ただの洒落ではなく、現代にも通じる「人間らしさ」の縮図なのかもしれません。自分の行動を見つめ、日々振り返りを通じて自己研鑽に精進していこう!

2025.07.11

山を愛して!

 山登りは、昨年から始めた大切な趣味です。


 一歩一歩、自分の足で自然の中を進み、頂上から見る景色は、日々の疲れを忘れさせてくれる至福のひととき。ただ、山を単なる「レジャー」としてだけでなく、その奥深さや歴史に思いを馳せることも、登山の醍醐味だと感じています。

 特に日本の象徴ともいえる富士山は、古くから「霊域」として畏れられてきた山です。修験道の祖、役小角(えんのおづぬ)が、伊豆に流されながらも夜ごと秘密裏に海を渡り、富士山頂で厳しい修行に励んだという伝説があります。


 彼のような超人的な健脚を持つ人物でさえ、山に入る前には身を清めたと伝えられるほど、富士山は畏れ多い存在だったのです。
しかし、残念ながら現代の登山者の中には、そうした「山への畏れ」を忘れてしまっているような行動も見受けられます。例えば、夜通しで山頂を目指す無謀な「弾丸登山」や、適切な装備を持たず素肌を露出した軽装で登る姿は、霊峰への敬意を欠いていると指摘されており、訪日客にもよく見られ、これまで問題となってきたとのことです。
 私の山登りの趣味でも、常にこの「畏れ」を忘れないように心がけていて、ゴミは必ず持ち帰りますが、ゴミを見つけましたら、できるだけ拾うようにしています。山登りの先輩から山は私たちに大自然の偉大さや神聖さを教えてくれる場所と、厳しく言われました。

 
 役小角が示したような、山に対する深い敬意を払うことこそが、安全で心豊かな登山を楽しむ上で最も大切だと改めて感じています。この夏、富士山を訪れる方も、ぜひその歴史と精神性に思いを馳せ、「山への畏れ」を胸に抱いていただきたいと思います。

2025.07.10

真実はどこにあるのか?

 安倍晋三元首相の銃撃事件から3年。


 多くの情報が飛び交う中で、妻の安倍昭恵さんが産経新聞のインタビューに応じ、事件を取り巻く様々な情報に触れていたことを明かしました。

昭恵さんは、マスコミやSNSの情報だけでなく、なんと「陰謀論にも目を通していました」と語っています。


 事件後、様々な憶測や情報が錯綜する中で、そうした情報に目を向けざるを得なかった状況がうかがえます。
彼女の心境は複雑です。昭恵さんは、「真実を明らかにすることは大事」だと考えている一方で、「夫が亡くなったという意味においては、どういう殺され方であったとしても、命は戻ってこない」という現実を深く受け止めています。

 そして、「恨むようなところには重きを置きたくない」という前向きな姿勢も示しています。なかなかできない心の持ち方です。
今年10月には、山上徹也被告の初公判が控えています。昭恵さんは、この公判について、「真実は知りたい」という強い思いから、「どこかのタイミングで(裁判に)行きたい」と述べています。
 陰謀論を含む多種多様な情報が入り乱れる中、公判が「真実」をどこまで解き明かすのか、注目されます。昭恵さんの言葉は、深い悲しみの中にも、真相を知りたいという強い意志と、恨みに囚われたくないという複雑な感情が入り混じっていることを示唆しています。