アキバのつぶやき

2025.07.15

 「産経抄」の記事で、戦国時代の鍼灸専門書『針聞書』に描かれた「腹の虫」という概念に触れ、大変興味深く読みました。当時は病気が人間の腹の中に棲む虫によって引き起こされると考えられていたのですね。


 摂津国の鍼師、茨木元行が著した書物には、なんと63種類もの「腹の虫」が描き分けられ、その性質や治療法まで詳細に記されているというから驚きです。例えば「腰抜の虫」はオニヤンマのような形をしており、体内に侵入して腰の辺りを飛び回り、ぎっくり腰を引き起こすそうです。木香と甘草を内服することで平癒するといった治療法も記されていたとか。
 

 他にも猛牛そっくりだったり、鳥のようなクチバシを持つものまで、その姿は非常にバラエティーに富んでいたと知り、当時の人々の豊かな想像力に感嘆しました。長野仁さんの『戦国時代のハラノムシ』で、カラーの虫の絵と共に紹介されているとのこと、ぜひ見てみたいものです。



 この記事を読んで、ふと、幼い頃に虫に夢中だった少年時代を思い出しました。近所の公園や森で、カブトムシやクワガタムシを見つけるたび、胸が高鳴ったものです。今から考えますと、とても危険な場所でした。足を踏み外すと池に落ちる斜面を歩いたりして、昆虫に秘められた生命の神秘に、ただただ夢中でした。
 当時の人々が目に見えない病の原因を「腹の虫」という具体的な形に描き出したのは、まるで私たちが目の前の虫に驚きと好奇心を抱くように、未知への探求心からだったのでしょう。


 現代のサイバー空間にうごめく見えない脅威を「腹の虫」に例える、産経抄の文章構成に脱帽すると同時に、どの時代にも人間の根源的な営みに通じるものがあるように思えてなりません。


 時代を超え、未知を理解し対処しようとする人間の営みは、変わらないのだと、改めて感じさせられました。

2025.07.14

政治家の資質とは?

 私は、参議院選挙の投票日は、仕事ですので、先日の休みの日に期日前投票を済ませてきました。不在者投票という制度もあり、若干違うのだそうです。

 間もなく迎える参議院選挙は、私たちの未来を託す大切な機会です。近年、政治家の資質が問われる場面が増えていますが、その際にしばしば注目されるのが「学歴」ではないでしょうか。

 昭和の怪物首相といえば、故田中角栄元首相です。氏は、故郷の新潟から上京後、中央工学校夜間部を卒業していますが、世間には「尋常高等小学校卒」というイメージが強くありました。本人もこれを意識し、蔵相就任時にはエリート官僚を前に「私が田中角栄だ。小学校高等科卒である。・・・・。全ての責任はこの田中角栄が負う」と挨拶したとされます。ここに角栄氏の強い自負が感じられます。

 一方、静岡県伊東市長選で初当選したばかりの田久保真紀市長は、「東洋大卒」と公表しながら、実際には「除籍」だったことが発覚し、辞意表明に追い込まれました。当初は疑惑にまともに向き合わず、混乱を広げたことで、市民からの苦情が殺到したのです。

 さらに学歴と資質の問題を考える上で、能登半島地震を巡り「運のいいことに能登で地震があった」と発言し批判を浴びた自民党の鶴保庸介参院議員の例があります。彼は東京大法学部卒という高学歴を持ちながらも、どんな文脈であれ、被災地に寄り添う気持ちがあればあり得ない発言をしてしまいました。珠洲市を念頭に置いたと思われる地名を「たま、なんだっけ」と話したことも驚きです。
 これらの事例が示すように、政治家の学歴は、その人物を知る情報の一つに過ぎません。田中元首相のような、猛勉強と博覧強記の人で、官僚がその法律知識に舌を巻くほどの人物だったとしても、金権政治などを巡り毀誉褒貶が激しいことも事実です。 重要なのは、彼らがどのような価値観を持ち、どのような行動をとるか、そして困難な状況にどう向き合うか、という人間性や責任感ではないでしょうか。

 今回の参議院選挙では、「若い世代の投票率の動向」も注目されています。政治家を選ぶことは、未来の社会を形作ることに直結します。私たち有権者は、表面的な情報に惑わされず、各候補者の人となりや政策、実績、そして何よりも国民に対する誠実さを見極める必要があります。この選挙が、より良い社会への一歩となるよう、賢明な選択をしていきたいですね。

2025.07.13

昭和のなめ猫

 ニュースで石破首相の「国民をなめるな」という発言を耳にしたとき、「首相、大丈夫ですか?」とつぶやきそうになると同時に、真剣な顔で強い言葉を投げかけるその姿に、「おお、言うねぇ!」と、内心うなずいたサラリーマンは、きっと少なくないはずです。
 ですが、その「なめるな」という一言に、私の脳裏には昭和のキャラクターらが、よみがえりました。



そうです、「なめ猫」です。



80年代初頭、私が高校生だった頃、特攻服を着てリーゼントをキメた猫の写真が大流行していた。



「なめんなよ」という決めゼリフとともに、免許証風カードや下敷き、筆箱まで登場し、文房具売り場はなめ猫一色だった。猫がヤンキー姿で睨みをきかせているのに、妙にかわいくて、どこか憎めない。理屈じゃない、あれは一つの“空気”だった。



 さて、令和の今、石破首相が「なめるな」と口にした。背景には政府への不信感や、緊張感の欠如を指摘する空気があるのだろう。組織に身を置く身としても、「なめられたら終わりだ」と思う場面は確かにある。部下に、取引先に、あるいは世間に。
 なめられないためには、言動と姿勢に芯がなければいけない。
 とはいえ、あの言葉を聞いて“なめ猫”を連想してしまうあたり、自分もまだまだ昭和が染みついているのかもしれない。真面目な政治の話と、猫の写真を結びつけるのは不謹慎だと怒られるかもしれないが、ちょっとくらい遊び心があってもいいじゃないか。人生も、仕事も、まじめ一辺倒では息が詰まります。

 結局、「なめるな」というのは、立場や時代を超えて通じるメッセージなんだと思います。同年輩や少し上の真面目な大人を見て、昔はなめ猫の下敷きを持ってたかもしれないなんて想像しながら、お客様のお宅に向かうのでした。

2025.07.12

三角の覚悟

 先日、お客様とお仕事の話をしていますと、「儲けるには、義理を考えてたらあかんのや!」と。 その話を聞いて、次の言葉を思い出しました。


「義理をかく、人情をかく、恥をかく。これで三角。」

 これは夏目漱石のデビュー作、『吾輩は猫である』に出てくる一節です。ユーモラスな文体の裏に、鋭い人間観察が込められているのが出色です。
 これは登場人物の一人、迷亭(めいてい)氏のセリフとして知られています。彼は世の中のしがらみを、軽妙にかわしながら生きる人物で、この「三角」という表現で、人間が避けがたい三つの「欠く」を茶化しつつ、同時に深く洞察しています。
 現代でも、私たちは「義理」「人情」「恥」を日常の中で常に意識しながら生きています。会社の上司に対する義理、友人や家族への人情、そしてそれらを貫こうとして恥をかく。
 迷亭氏のようにすべてを笑い飛ばせればいいですが、実際にはそうもいかないのが世の中ですね。
 漱石の猫は、人間の矛盾や滑稽さをじっと見つめます。そして読者に、「あなたも、この三角で生きているのでは?」と問いかけてきます。耳が痛い!!
 人生には、完全な正解などなく、すべてを満たすこともできません。だからこそ、自分の「三角」をどう扱うかに、その人らしさがにじみ出るのではないでしょうか。
 この名言は、ただの洒落ではなく、現代にも通じる「人間らしさ」の縮図なのかもしれません。自分の行動を見つめ、日々振り返りを通じて自己研鑽に精進していこう!

2025.07.11

山を愛して!

 山登りは、昨年から始めた大切な趣味です。


 一歩一歩、自分の足で自然の中を進み、頂上から見る景色は、日々の疲れを忘れさせてくれる至福のひととき。ただ、山を単なる「レジャー」としてだけでなく、その奥深さや歴史に思いを馳せることも、登山の醍醐味だと感じています。

 特に日本の象徴ともいえる富士山は、古くから「霊域」として畏れられてきた山です。修験道の祖、役小角(えんのおづぬ)が、伊豆に流されながらも夜ごと秘密裏に海を渡り、富士山頂で厳しい修行に励んだという伝説があります。


 彼のような超人的な健脚を持つ人物でさえ、山に入る前には身を清めたと伝えられるほど、富士山は畏れ多い存在だったのです。
しかし、残念ながら現代の登山者の中には、そうした「山への畏れ」を忘れてしまっているような行動も見受けられます。例えば、夜通しで山頂を目指す無謀な「弾丸登山」や、適切な装備を持たず素肌を露出した軽装で登る姿は、霊峰への敬意を欠いていると指摘されており、訪日客にもよく見られ、これまで問題となってきたとのことです。
 私の山登りの趣味でも、常にこの「畏れ」を忘れないように心がけていて、ゴミは必ず持ち帰りますが、ゴミを見つけましたら、できるだけ拾うようにしています。山登りの先輩から山は私たちに大自然の偉大さや神聖さを教えてくれる場所と、厳しく言われました。

 
 役小角が示したような、山に対する深い敬意を払うことこそが、安全で心豊かな登山を楽しむ上で最も大切だと改めて感じています。この夏、富士山を訪れる方も、ぜひその歴史と精神性に思いを馳せ、「山への畏れ」を胸に抱いていただきたいと思います。