アキバのつぶやき

2025.09.13

脳内ホルモンと経済

 あまり聞きなれない言葉として、「オキシトシン」があります。これは、信頼感や共感性を高めるホルモンです。母子の愛着ホルモンとして知られているようですが、実は組織や社会の在り方を考える上でも、大切なヒントを与えてくれるものです。

 人が信頼し合い、安心して関われる環境では、自然とオキシトシンが相互に分泌され、協力や共感が生まれます。その土台の上でこそ、人は創造的に働き、組織は力を発揮できるのです。
 
 一方で、私たちが長く信じてきた「競争こそ経済を発展させる」という考え方は、オキシトシンの視点から見ると必ずしも持続的ではありません。競争は一時的に生産性を押し上げるかもしれませんが、不安や警戒心を増幅させ、オキシトシンの分泌を妨げます。   結果として、人間関係はぎくしゃくし、信頼のネットワークが途切れてしまうのです。

 経済も組織も、人が互いに信じ合い支え合うことでこそ反映する。そう考えると、競争だけに依存する発想は限界を迎えているのではないでしょうか。現代のSDGsにつながりますね。

 では、どうすればオキシトシンを基盤とした協力的な経済や組織を育てられるのでしょうか。答えの一つは「小さな承認」と「共有する時間」です。日常のなかで「ありがとう」と声をかけたり、雑談や相談の時間を持ったりすることで、人は自分が受け入れられていると感じます。その安心感が信頼を呼び、信頼がさらに協力を広げていく。

 まさに、競争ではなく共感の連鎖こそが、組織を強くし、経済を持続させる原動力となるのです。ただ問題は、相互にそれを受容できる素養があるかないかです。だから、社会に出るまでにリベラルアーツの修養が重要なのだと思います。

 経済は数字の集合体に見えますが、その根底にあるのは「人と人との関係の総和」です。オキシトシンが生み出す信頼の循環を意識することで、組織は成果主義的な戦場から、人が安心して挑戦できる共同体へと変わります。そして、そのような組織の集合体こそが、競争ではなく共生によって繁栄する新しい経済の姿なのかもしれません。

 ポスト資本主義社会が、もう到来しているのではないかと強く感じながら、自身の修養に努力していきます。

2025.09.12

折れた煙草で分かるだろうか?

 中条きよしさんの「うそ」という歌がヒットしました。今でも口ずさむことが出来るぐらい、インパクトのある歌詞です。

 タバコではなく、世の中には、感情や状態を「色」で表現する、なかなか味わい深い言葉の文化があります。たとえば、経験の浅い若者を「青二才」と呼んだり、人の腹の底にある黒い企みを「腹黒い」と言ったりします。こうした比喩は、色という感覚的なものを通して、私たちの理解や共感をスッと深めてくれます。

 さて、「嘘」の色は何色か?おそらく多くの人が、「真っ赤な嘘」と答えるのではないでしょうか。これは感覚的にもしっくりきます。「真っ赤」と聞くと、どこか大げさで、あからさまで、隠しようのない嘘、そんな印象を受けます。
ただしこの「真っ赤な嘘」にも、ちょっとした言葉のトリビアがあります。サンスクリット語の「マハー(大きな)」が語源となり、それが漢字で「摩訶(まか)」と訳され、やがて「まっか」と誤解されたという説もございます。

 もしこれが本当だとしたら、「摩訶な嘘」という表現は、実は「とびきり大きな嘘」、つまり質・量ともにとんでもない嘘を指していたのかもしれません。この「摩訶な嘘」が、現実に公的機関で起きてしまった。しかも、それが科学捜査という極めて専門性が高く、かつ社会的信頼が強く求められる領域で起きたという点に、今回の問題の根深さがあります。

 佐賀県警の科学捜査研究所に勤務していた技術職員が、実際にはDNA型鑑定を行っていないのに、「鑑定した」と報告していた。これが7年以上にわたり、130件にものぼるというのです。さすがにこの事態には、誰もが目を疑ったはずです。
DNA型鑑定は、現代の刑事司法においてきわめて重要な役割を果たしています。そこに不正があれば、冤罪を生む可能性すら出てくる。

 科学的に見えるものの裏側に、不確かさや人間的な弱さが入り込んでいた。これこそが、「摩訶な嘘」たる所以でしょう。
今回の件で見えてくるのは、「技術の正しさ」と「人の正しさ」は、まったく別物だということです。どれだけ精緻な技術があっても、それを扱う人間の倫理観や誠実さがなければ、その価値はゼロになる。いや、場合によってはマイナスです。

 この技術職員は懲戒免職という処分を受けましたが、それで終わりではありません。問題は、なぜ7年ものあいだ、組織の中でその嘘が見抜かれなかったのか。言い換えれば、「内部統制」という、組織の仕組みと文化がどう機能していたのか、という点にあります。組織は、どこまでいっても「人の集まり」です。人がいる限り、ミスもあれば、嘘もある。その前提に立って、仕組みやチェックの体制をどう設計するか。
 
 加えて、「嘘はつかない」という最低限の倫理観を、どうすれば職員一人ひとりに根づかせられるか。そこにしか、本質的な解決策はありません。言い換えれば、「摩訶な嘘」を防ぐのは、「摩訶な仕組み」ではない。地味で、地道で、面倒な作業の積み重ね。


 誰かが見ていなくても、自分のやるべきことを淡々とやる。そんな姿勢が、実はもっとも強い信頼をつくるのだと思います。
「真っ赤な嘘」が堂々とまかり通る社会ではなく、「地味に誠実」が評価される社会へ。今回の事件は、その問いを私たちに突きつけています。

 マネジメントの父、ドラッカー氏の言葉に、「リーダーに必要な資質は真摯さ」とあります。蓋し名言ですね。

2025.09.11

学歴詐称問題に感じる「問いの質」

 静岡県伊東市の市長による学歴詐称疑惑と、それに端を発した市議会解散。この出来事をニュースとして消費してしまえば「不祥事の一つ」で終わります。しかし、そこで思考を止めずに「問いの質」を上げることが、本当の学びになるのではないでしょうか。

 第一の問いは、「信頼はどこに立脚するのか」という点です。学歴は、ある意味で社会が付与した「信頼のショートカット」です。しかし、実際の資質や行動が伴わなければ空虚な看板に過ぎません。では、信頼を担保する本質的な基準は何なのか。
 
 第二の問いは、「学歴への過剰な依存はなぜ続くのか」という問題です。社会は依然として学歴を価値判断の軸に据えています。これは本人にとっては誘惑となり、市民にとっては先入観を強化する仕組みです。この構造を変えない限り、同様の問題は繰り返されるでしょう。
 第三の問いは、「失われた信頼をどう取り戻すか」という点です。解散という制度上の手段は、一つのリセットにはなりますが、それが信頼の回復に直結するわけではありません。市民と行政が対話を通じて再び関係を紡ぐには、何が必要なのか。
 
 こうした問いを積み重ねていくと、この事件は単なるスキャンダルではなく、社会全体に向けられた「問いの鏡」であることが見えてきます。問いの質を高めることで、政治や行政を「他人事」ではなく「自分事」として考える視座が生まれるのではないかとお思います。

2025.09.09

人生と幸福について

 人生というものを振り返ってみると、突き詰めれば「幸福を求める努力の積み重ね」なのだと思いませんでしょうか。人は生まれながらにして、幸福を手にしているわけではありません。むしろ、幸福は自らの選択と行動によって形づくられ、更新されていくものであって、誰かから与えてもらうものではないのです。

 努力と聞くと、多くの人は「つらいもの」「我慢するもの」というイメージを抱きます。しかし、幸福に向かう努力は、必ずしもそうではありません。自分が本当にやりたいことに向けて挑戦するとき、そこには確かに苦労がある一方で、大きな充実感も存在します。努  力は単なる義務ではなく、幸福をつかむための自然なプロセスとも言えるとおもいます。
 
 大切なのは、「幸福」がゴールとして遠くにあるのではなく、努力そのものの中に幸福が宿る、という視点ではないでしょうか。仕事で新しい挑戦を重ねたり、家庭や仲間との関係を深めたりする過程で、人はすでに幸福の一端を味わっています。幸福とは、到達点ではなくプロセスに埋め込まれたものなのです。

 また、幸福の形は人それぞれです。ある人にとっては経済的な安定かもしれませんし、別の人にとっては自由な時間や、誰かと共に過ごす温かいひとときかもしれません。他人と比べることなく、自分にとって意味のある努力を続けること。それが人生を幸福にする鍵だと思います。

 結局のところ、人生とは「幸福を追い求める努力の連続」であり、その歩み自体が私たちを豊かにしてくれるのです。
幸福を一時でも放棄したときに、人は絶望を感じるのではないかと思います。

 どんな時でも、幸福を求めることに意志し続けることを、我が人生観としていきます。

2025.09.08

人間の年齢とは

 初老の域に達し、もうこれだけ生きてきたのかと、ふと思う時がございます。早いもんだなぁ!

 そんな時、本日の毎日新聞の「余録」が紹介していたジム・ヘンリー氏の物語に感動しました。それは、米コネティカット州に暮らしたヘンリー氏は、子どもの頃に読み書きを学ぶ機会がなく、漁師や大工として懸命に働き続けました。長年、家族にも秘密にしてきた識字能力の欠如を、妻の病気を機に打ち明けるに至ったといいます。

 しかし、彼の人生は90歳を過ぎてから、驚くべき変貌を遂げます。なんと90歳を過ぎてから孫の勧めにより字を学び始め、98歳という高齢で自伝小説「漁師の言葉で」を執筆し、世間の注目を集めたのです。彼は読み書きができるようになった時、「世界一豊かになったようだ」と感じたといいます。そしてさらに驚くべきことに、99歳で逝去する直前まで、2作目の執筆を続けていたというのです。

 ヘンリー氏の生涯は、私たちに学ぶこと、創造すること、そして表現することに、「遅すぎる」ということは決してないという、力強いメッセージを投げかけます。年齢を理由に可能性を諦めることなく、知的な好奇心と探求心、創造性を最期まで持ち続けた彼の姿は、私たち自身の内なる可能性が無限であることを教えてくれます。

 国際識字デーにちなむこの物語は、物質的な豊かさだけでなく、知的な活動と創造の喜びこそが、人生を真に豊かに彩る核心であると示唆するでしょう。

 私たちは、ジム・ヘンリー氏の生きざまから、人間の持つ潜在能力、特に創造性や知的好奇心に、年齢の制約はほとんど無意味であることを学ぶべきです。彼の物語は、すべての年代の人々に、新たな学びや創造への一歩を踏み出す勇気を与えてくれるのではないでしょうか。

 僅かでいいのです。もう年だからという常套句の言い訳をせずに、躊躇することなく新たな分野を開拓していきましょう。