アキバのつぶやき
2025.11.28
「辞職」という区切り
前橋市長の突然の辞職というニュースが世間を駆け巡りました。
内容そのものは、すでに多くのメディアで報じられているので、ここでは詳細を繰り返すことはしません。問題となった行動が、職務に対する信頼を揺るがし、市政運営に支障をきたすレベルに達した。その結果として辞職に至った。ここまでは事実関係として、淡々と理解しておけばいいと思います。
今回の件で改めて考えたいのは、「辞職」という行為がもつ意味です。辞職とは、単に職を離れることではなく、社会的な“区切り”をつける手段です。
信頼を失った状態のまま居座れば、行政は停滞し、市民は不安を抱え、政策は前に進みません。混乱を最小限に抑え、組織を前に進めるための“機能”として辞職があります。つまり辞職とは、役割と個人をいったん切り離し、組織にとって最適な意思決定を可能にするという制度的な役割を担っています。
しかし同時に、辞職には限界もあります。辞めることで問題が片づいたように見えてしまう。説明責任が曖昧なまま幕が閉じる。組織のガバナンスや倫理意識といった構造的課題が、置き去りになる危険があります。辞職は、あくまでも“スタート地点”であって、ゴールではありません。
今回の件をきっかけに本当に問うべきは、「なぜこの問題が起こったのか」「どうすれば再発を防げるのか」という未来に向けた議論です。個人の問題として片づけず、組織の本質的な問題として考える。
ただのスキャンダルとして消費するのではなく、行政の透明性を高める契機にする。この視点こそが重要だと思います。辞職は、責任を逃れるための手段ではありません。組織と社会の前進のために“余白をつくる”行為です。その余白を、どう埋め、どの方向に向かうのか。それを決めるのは、私たち市民です。
むしろ今問われているのは、辞職そのものより、辞職のあとに、何をするのか。その一点に尽きるのではないでしょうか。
2025.11.27
いつもしていることのチカラ
これは意外と、本人が一番軽く扱いがちなものです。なぜなら、日々の習慣はあまりに当たり前すぎて、特別さが見えなくなってしまうからです。しかし、ビジネスにおいても、人生においても、この「いつも」の積み重ねほど強いものはありません。
多くの人が成果を求めて派手な変化や劇的な一手に目を向けがちです。けれども、結果を左右するのは、いつも静かに積み上げられる小さな行動です。私がいつも心がけていることは、まず一日の始まりに、水を必ず飲むということです。仕事の終わりは机の上を整えて帰宅することです。
数分で終わる些細な行為ですが、これをしてから一日をスタートし、終了しますと、気持ちが澄み、判断の質が明らかに違ってきます。もうひとつ、「いつも」続けていることに、数ページですが、生きる教訓が書かれた著書を、出社前に読むという習慣があります。
読むと言うより、自分に言い聞かせるといったほうが的を得ています。たとえ数ページでも、自分への戒めとして読むことで、安心感が生まれます。不動産の仕事は、人としての関わりがすべての基盤ですから、この小さな「いつも」が結果的に大きな違いを生み出しているのだと思います。
「いつも」していることは、派手さはありません。しかし、習慣の力は、後から振り返ったときにこそ、圧倒的な差になって現れます。結局、人生の質も、仕事の実力も、細部で決まるのではないでしょうか。その人の「いつも」にこそ、その人らしさが宿っています。変化を焦る前に、自分の「いつも」を見直してみる。
そこに、次の一歩のヒントがあると感じています。
2025.11.25
「青」に込められた希望と物語
大相撲九州場所で関脇・安青錦関が優勝しました。そこに、単なるスポーツの結果を超えた、色と物語の重なりを強く感じました。彼の四股名にある「青」という文字。その背景には、彼自身の人生と、いま世界が直面している歴史的な文脈が重ねて見えてくるからです。
ウクライナ出身の安青錦関にとって、「青」は単なる色ではありません。ウクライナの国旗が示す、果てしなく広がる空、そして自由と平和への願い。その象徴としての青です。その色を名に刻むということは、故郷への思いと、自らが歩んできた道のりを、自分自身の存在の一部として抱え続けるという決意の現れだと思います。
九州場所での優勝は、まさにその「青」が輝いた瞬間でした。戦火に揺れる母国を遠く離れ、相撲という異文化の中で、自分の力と技だけを頼りに土俵に立つ。その姿は、結果としての勝利以上に、静かで強い希望のメッセージとして響きました。
インタビューで彼が「僕は力士なので、相撲の話をしましょう」と語ったと言います。この言葉には、政治的な主張ではなく、自分の場所で全力を尽くすという覚悟が込められていると感じました。相撲は場所を争う競技ですが、安青錦関の優勝が示したのは、国境や言語を越えた「心の場所」の存在ではないでしょうか。
青は空の色ですが、人の心をすっと透き通らせる冷たい青ではなく、未来に向かう凛とした青。世界が不安定さを増すいま、その色には、私たちを前に進ませる力があります。
優勝の瞬間、土俵の上に立つ彼の表情には、喜びと静かな決意が同居しているのを感じました。まるで、曇り空が開けて、青空が一気に広がっていくようでした。スポーツには、言葉を尽くすよりも強く人の心を動かす力があります。
安青錦関の優勝は、その力を再確認させてくれました。これからの相撲界で、彼がどんな景色を広げていくのか。ウクライナの青空のように、限りない未来を感じさせます。彼の活躍を、深く応援していきたいと思います。
2025.11.24
新たなコンセプトを生み出す力が必要だ!
スターバックスは「サードプレイス」、つまり自宅(ファーストプレイス)でも職場(セカンドプレイス)でもない、第三の居場所というコンセプトで成長してきました。
この考え方は、単にコーヒーを飲むだけの場所ではなく、思考を深め、時間を味わい、ゆとりを得る空間を作り出すという、ブランドとしての存在理由を示していたのだと思います。
しかし最近、駅構内の改札内にスタバが出店する例が増えています。ホームへ急ぐ乗客、乗り換えの喧騒、短い滞在時間。どう見ても「ゆったりと過ごす第三の場所」とは真逆の環境です。この矛盾をどう理解するか。
これは、スタバの戦略が「居場所」から「移動中の体験」へとシフトしている兆しだと捉えています。現代の生活は、在宅とリモートワークの普及により、「場所」という概念が大きく変わりました。もはや会社と家の境界線は曖昧で、私たちの仕事や生活は流動的になっています。すると、人が価値を感じる「場所」は必ずしも物理的な滞在時間の長さに依存しません。
むしろ、移動の合間に、状態を切り替え、自分を整える短い時間こそが求められているのかもしれません。駅ナカのスタバは、その「質の高い短い時間」を提供するための進化だと考えられます。
ゆっくり座ることが第三の場所なら、駅ナカは「瞬間的な第三の場所」。数分のコーヒーブレイクが、次の行動のパフォーマンスを上げる。そこにこそ、ブランドとしての一貫性があります。
本質は、長時間滞在できる空間ではなく、「気持ちを整える体験」なのだと思います。スタバは場所を売っているのではなく、状態の変化を売っている。だからこそ、駅ナカに展開しても矛盾しない。
むしろ、生活が細切れになる時代において、第三の場所の再定義だと言えるのではないでしょうか。
2025.11.23
くいしん坊!万歳、旅の終わりに思うこと
長く親しんできた「くいしん坊!万才」が、ついに幕を下ろすそうです。 昭和を生きてきた、初老の域に入った私といたしましては、こうして文字にすると、胸にふっと風が吹くような寂しさを感じます。50年もの間、日本中の食卓と旅の風景を届けてくれた番組が、静かにその役割を終えるのですから、感慨深いものがあります。
私がこの番組を見始めたのは、まだ喫茶店の窓際でナポリタンを啜りながら将来に思いを馳せていた昭和の頃です。地方ロケという響きには、どこか遠い土地の匂いがありました。画面の向こうから聞こえる波の音、湯気の立ちのぼる釜、地元の方の照れた笑顔。テレビの前の若い私は、まるで自分も旅をしているような気持ちで見入ったものです。
番組が教えてくれたのは、料理の味そのもの以上に、そこに息づく人の暮らしや時間でした。名産品の深い味わいよりも、手を動かすお母さんの背中、漁師のごつごつとした手、古くから続く食堂の暖簾の揺れが、皿の向こうに確かに存在すると気づかされました。「食べることは、誰かの人生をいただくことなのだ」と、私はこの番組から学んだのです。
長く続くというのは、華やかな記録ではなく、静かな積み重ねです。5分のミニ番組という限られた枠の中に、旅と食と出会いを詰め続ける。その粘り強さと誠実さこそが、視聴者の信頼につながったのだと思います。派手な演出も、過剰な説明もいらない。ただ、目の前の料理と人に向き合う。そんな潔さがこの番組にはありました。
最終回の日、テレビの前でいつものように見ることは出来ません。終わりというのは、ただ失われるだけではありません。5000皿以上の思い出は、画面の外で私たちの心に生き続けます。
「ごちそうさま」ではなく「ありがとう」と言うべきなのでしょう。旅は終わっても、食べる喜びと人との出会いは、いつでも私たちの毎日を照らしてくれるからです。これからも小さな食卓を大切にし、ひとつひとつの食の向こうにいる誰かを感じ想いながら、箸を進めていきたいと思います。