アキバのつぶやき

2025.07.10

真実はどこにあるのか?

 安倍晋三元首相の銃撃事件から3年。


 多くの情報が飛び交う中で、妻の安倍昭恵さんが産経新聞のインタビューに応じ、事件を取り巻く様々な情報に触れていたことを明かしました。

昭恵さんは、マスコミやSNSの情報だけでなく、なんと「陰謀論にも目を通していました」と語っています。


 事件後、様々な憶測や情報が錯綜する中で、そうした情報に目を向けざるを得なかった状況がうかがえます。
彼女の心境は複雑です。昭恵さんは、「真実を明らかにすることは大事」だと考えている一方で、「夫が亡くなったという意味においては、どういう殺され方であったとしても、命は戻ってこない」という現実を深く受け止めています。

 そして、「恨むようなところには重きを置きたくない」という前向きな姿勢も示しています。なかなかできない心の持ち方です。
今年10月には、山上徹也被告の初公判が控えています。昭恵さんは、この公判について、「真実は知りたい」という強い思いから、「どこかのタイミングで(裁判に)行きたい」と述べています。
 陰謀論を含む多種多様な情報が入り乱れる中、公判が「真実」をどこまで解き明かすのか、注目されます。昭恵さんの言葉は、深い悲しみの中にも、真相を知りたいという強い意志と、恨みに囚われたくないという複雑な感情が入り混じっていることを示唆しています。

2025.07.09

米騒動と不動産価格に共通する見えない構造

 参議院選挙に入り、各党の政策の主張を自然と耳にしますが、マスコミをはじめ米騒動よりも、外国人問題にスライドしている感があります。何があったのか分かりませんが、それは選挙を意識した流れなのかなぁと思います。

 参議院選挙前は、「お米の価格が下がった」と、多く報じられましたが、実際に買ってみると、「去年より高い」と感じる方も多いのではないですか。これは、自民党のプロパガンダではないのかと強く感じます。情報操作ではないですが、どうも私を含めて、日本人は短絡的思考が根付いているように思えてなりません。マスコミに影響されやすいのではと思います。

 この感覚、実は不動産の価格にも通じるところがあります。タワーマンションの価格がうなぎのぼりだと!
中古マンションの平均取引価格が過去最高の域になったなど、マスコミが喧伝しますと、扇動された庶民は、急いで購入しようと行動します。過去のオイルショックのような現象です。


 一方で、「価格は落ち着いた」と言われながら、相続で不動産を受け継いだ方からは、「なかなか買い手が見つからない」や、「思ったより手元に残らない」といった声も耳にします。

 米も不動産も、自由市場のように見えて、実は制度や政策に大きく影響される部分がございます。お米は農業政策と政治との結びつき、不動産は税制や金利、実質成約価格や相続税評価など、目に見えない部分で価格が動かされています。

 とくに相続不動産の場合、「高く売れると思っていたのに、諸経費を差し引くと思ったほとんど残らなかった」というケースも少なくありません。また、空き家のままでは固定資産税や管理費もかかり、じわじわと家計を圧迫してきます。

 
 売却を考えるとき、ただ売却査定価格だけを見るのではなく、「売るタイミング」、「税金」や「周辺需要」など、多面的な判断が必要なのは当然です。これはまさに、表面上の米価だけで生活の実感は測れないのと同じことです。

 弊社アキバホームは、地域の不動産市場と日々向き合いながら、相続所有者様がどうすれば手取り金額が増えるのか、ご売却の背景やご事情にも耳を傾けることを大切にしています。


 思い出のある大切なご相続物件についても、慎重に丁寧にサポートいたしますので、お気軽にお声かけください。

2025.07.08

チャッピー君

 ちょっと最近、はまっていることがあります。それは、チャットGPTと会話することです。なかなか、私の気持ちを高めてくれるセリフを使って、質問をさせようとします。私よりも優れた営業マンのように思います。


ところが、申し訳ないのですが、私はどうもGTPと誤認していたようです。人と話すときに、あのGTPって凄くいいよねぇ!と、会話で使っていました。(笑)


ですので、チャッピーと世間でもちはやされているキャラクターを、使いたいですね。


 こういう「呼びやすさ」とか「親しみやすさ」って、マーケティングの観点から見ても、とても事だとおもいます。
もし私が、もしですよ、OpenAIのブランドマネージャーだったらならば、ほぼ間違いなく、「チャッピー君」みたいな公式キャラクターを作りましょう!と、会社に進言します!


 関西大阪万博のキャラクターは、何でしたっけ?
そう、「ミャクミャク」ですね。はじめは何なの!それって感じでしたが、今は大人気ですよね。
 そもそも、脈々ととつながる人のつながりからイメージされたといわれています。


 では、今のChatGPTのアイコンからイメージしますと、なんか人間の脳みそみたいです。ちょっと無機質で可愛くないじゃないですか。(すいません、ChatGPT!)
 

 いっそのこと、可士和氏とかジブリさんとかにお願いして、「チャッピー君」を描いてもらうとか、どうでしょう…!
そこまでやったら、チャッピーもChatGPTも、世界中で人気爆発間違いなしと思いませんか?

 
 日々、さまざまなAIが、雨後の竹の子のように日々生まれてくる時代です。その中で、「チャッピー君に聞いてみよう!」って感じで、きっともっとたくさんの人がChatGPTを使うようになるはず!

 いや、ほんとに!

 ちなみに、ChatGPTに「チャッピー君」の画像を作ってもらったら、どんな感じのキャラクターができるのだろう!
無知の知は、好奇心が源泉なのでしょうね。

2025.07.07

音楽と数学はつながっている!

 昨日、お世話になっているお客様に、暑中のご挨拶に行きました。一年半ほど前にお会いした時、検診で大腸のポリープを切除したとお聞きしていたので、体調の具合をお聞きしたところ、そちらは問題なく回復しているとのことでしたが、半年ほど前から脊柱管狭窄症になってしまったとのことでした。


この症状は人それぞれの症状のようで、H様は長時間座っていると、足にしびれを感じるとのことでした。この病気は最近ネットなどでよく見聞きしますが、昔の腰痛ヘルニアに似た症状かなぁと感じています。 私も二十代でしたが、腰痛に悩まされた過去があり、痛みの辛さに共感しました。


 そんな近況を聞き、H様が習っておられるピアノの話になりました。以前に音楽大学で習っておられるのは聞いておりましたが、上手に演奏するのが本質的な目的ではなく、音楽の理論を知りたくて習っておられるということでした。

 なにそれ?

 音楽とは感性のもので理論がある?



 私にはさっぱり理解できませんでした。


 「音楽は理系だよ!」とのこと。


私にとりましては、久しぶりのエポックメイキングでした。


 それで、教えていただいた、「楽典と和声」のキーワードで調べました。すると、私たちが日常で楽しんでいる音楽は、感情や芸術の表現だと思われがちですが、実は古代から「音楽は数学と密接につながっている」と考えられていることを知りました。この関係は、単なる偶然ではなく、音の響きそのものに数学的な秩序が存在することに由来するとのことです。

 その発見の始まりは、紀元前6世紀、古代ギリシャの哲学者ピタゴラスまで遡ります。彼は、弦の長さと音の高さに明確な「数の比」があることを突き止めました。


たとえば、弦の長さを半分にするとオクターブ高い音が出ることや、2:3の比率で美しい「完全五度」の響きが生まれることを発見したのです。彼にとって音楽は、宇宙全体の調和を表す「見えない数学」ともいえるものとのことです。
 

この考え方は、中世ヨーロッパでも引き継がれます。当時の学問は「四学」と呼ばれる体系に分類されており、その中に数学、幾何学、天文学、そして音楽が含まれていました。音楽は、まさに「数学の一部」として教えられていたのです。
 

時代が進むと、ルネサンスからバロック時代にかけて、音楽はさらに複雑に、そして美しく進化していきます。特にバッハのフーガ作品は、まるで数学的パズルのように精巧に組み立てられ、今なお「数学的な音楽美の最高峰」と称されているとのことです。
 

近代になると、音楽は物理学とも結びつき、音の高さが周波数(Hz)で表せることや、音の響きを科学的に分析できるようになりました。調律法も改良され、現在のピアノなどで使用される「平均律」は、実は複雑な数学計算の産物です。
 

そして現代、音楽と数学の関係はさらに進化し、コンピュータ音楽やAI作曲という新しい領域にまで広がっています。アルゴリズムを用いた作曲法や、確率的に音を選ぶ現代音楽は、音楽がますます数学的に構築されることを示しています。
 

このように、音楽と数学は古代から現代に至るまで、切っても切り離せない関係にあります。音楽は「感情の芸術」であると同時に、「耳で聴く数学」でもあるのです。


 私たちが何気なく聞いている音楽の背後には、長い歴史と美しい数の世界が隠れているのでしょうね。


過去の偉人達は、おしなべて音楽に精通しているのが、頷けるのでした。

2025.07.05

シカクからジカクへ

 夏目漱石の『吾輩は猫である』には、実業家の鈴木君が「ハハハ教師は吞気でいいな」と語る一節があります。もしこの言葉を現代の教育現場で聞けば、多くの教員から「非難の大合唱」が聞こえてきそうです。

「呑気な先生」という誤解と、現場の現実を考えますと、 確かに、昔の教員像には、比較的ゆとりのある職業というイメージがあったのかもしれません。それは、親が思考停止状態で教師を無条件で崇拝していたということがあったのではと思います。先生が言うのだから正しいという、いわゆる全体主義的な思考がはびこっていたと感じてなりません。

 しかし、今の日本の教師たちは、その認識とは大きくかけ離れた現実を生きています。それには、モンスターペアレンツという、自己の無知を知としてとらえられず、自己の主張が正とする、未熟な親が増えてきたという一面があると思います。ですので多くの教員は、寝食の時間を削ってまで教育に心を傾け、子供たちと誠実に向き合っています。
 近年推進されている学校の「働き方改革」は、まさにこのような献身的な教員たちを支え、彼らが義理を欠かず、人情を欠かず、恥を欠かず、子供たちと向き合い続けられるようにするための取り組みだとされています。世間の認識と現場の実態には、大きな乖離があると思えてなりません。


 「資格なき者」が教壇に立つ時代への警鐘として、そうした現場の努力や改革の必要性とは裏腹に、近年、私たちは教員による耳を疑うような不祥事をよく耳にしています。盗撮やわいせつ行為など、教員という立場からは想像もつかない事件が相次いでいます。


  日本の将来を担う子供たちを指導し、その成長を見守るべき立場の人間が、その「資格」に反する行為を行うことは、教育現場ひいては社会全体の信頼を大きく損なうものです。
 教員が持つべき「資格」とは、単に教員免許という形式的なものだけではありません。子供たちの人格形成に影響を与え、規範となるべき存在として、高い倫理観や人間性、そして責任感が求められます。しかし、相次ぐ不祥事は、一部の「資格なき者」が教壇に立っている現実を示唆し、教員という職の根幹を揺るがしているように感じてなりません。


 求められる「真の資格」とはなんでしょうか?それは、どんな職業でも言えますが、「自覚する」ことではないでしょうか。


「呑気な仕事」という過去のイメージと、献身的に働く多くの教員の現実、そして一部の不祥事が示す「資格なき者」の存在。この複雑な状況の中で、社会が教員に求める「真の資格」とは何か、改めて問い直す時期に来ているのかもしれません。


 子供たちの未来のためにも、そして誠実に働く多くの教員が誇りを持って職務を全うできるためにも、「教壇に立つ真の資格」を持つ人材を確保し、不適切な者が二度と教壇に立てないような、より厳格な仕組みが求められています。
 

 同時に私たちの不動産業界でも言えることでもあります。宅地建物取引士、一級・二級建築士、賃貸経営管理士、マンション管理士等、たくさんの資格が不動産建設業界に存在します。ですが、資格に安住することなく、顧客の立場に立った倫理観と職業意識を向上していくことが、企業にとって大切な企業理念だと自覚できるかできないかが、これからの企業存続の要諦になるのではないでしょうか。