アキバのつぶやき
2026年01月
2026.01.19
大寒に思うこと
この度の衆議院解散選挙を見ていて、まず感じるのは「唐突さ」ではありません。むしろ、「準備され尽くした唐突さ」です。解散はサプライズのように見えて、その実、関係者の間では十分に織り込み済みのイベントです。問題は、誰のために準備されていたのか、という点です。
政治の解散には、常に二つの時間軸があります。一つは、有権者が感じる時間。もう一つは、政権が管理する時間です。この二つは、ほとんど一致しません。有権者が「まだ判断材料が揃っていない」と感じるときほど、政権側は「いまが最適」と判断します。今回の解散も、まさに後者の論理で動いています。戦略的に見れば、解散とは「比較の土俵を固定する」行為です。物価、外交、少子化、財政。どれも長期戦が必要なテーマですが、選挙という短期決戦に持ち込むことで、評価軸を単純化できる。
これは経営で言えば、構造的な問題が表面化する前に、決算期を前倒しするようなものです。一方で、野党側は常に不利です。選挙とは、準備が整った側が勝つゲームだからです。理念の正しさや批判の鋭さよりも、「すでに配置されている人・金・組織」がものを言う。これは是非の問題ではなく、ルールの問題です。ルールを変えない限り、結果も大きくは変わりません。
今回の解散選挙で問われているのは、「信任」ではありません。本当に問われているのは、「この不安定な状況を、当面誰に預けるか」という暫定判断です。選挙結果が何かを解決するわけではございません。せいぜい、時間を買うか、時間を失うか。その選択に過ぎないとおもいます。
興味深いのは、有権者の温度感です。怒りも期待も、どちらも以前ほど強くない感じがします。これは政治への無関心というより、「大きく変わらないことを前提にした合理的諦観」と見るべきでしょう。変化を期待しない人ほど、日常は冷静です。
経営でも同じですが、最大のリスクは「変わらないこと」ではありません。「変わらないまま、環境だけが変わること」です。解散選挙は、そのズレを一時的に見えなくする装置として機能します。しかし、装置は永続しません。
この度の衆議院解散選挙は、未来を決める選挙ではありません。過去の延長線を、もう少しだけ続けるかどうかを決める選挙だと感じます。その現実を理解した上で投票するかどうか。そこに、有権者側の成熟が問われています。選挙は終わります。
しかし、構造は残りつづけます。そのことを、私たちは何度も経験してきたはずだと、肝に銘じて投票に行こう。
2026.01.18
新党立ち上げと不動産経営の共通点は?
立憲民主党と公明党が新党を立ち上げる。このニュースに触れたとき、私は不動産経営の現場でよく見る光景を思い出しました。それは「老朽化した建物を、名前を変えて再スタートさせる」場面です。
不動産の世界では、築年数が進むと、どれほど立地が良くても入居率は下がります。設備が古い、間取りが時代に合わない、管理の思想が古い。こうなると、家賃を下げても根本的な解決にはなりません。そこで行われるのが、リノベーションや用途変更、あるいはブランドの付け替えです。
政治の新党立ち上げも、構造はよく似ています。支持率が下がった、メッセージが届かなくなった、内部論理が外部に伝わらない。そうした「空室率の上昇」に直面したとき、看板を掛け替えるという選択肢が浮上します。
ただし、不動産経営ではよく知られている事実があります。名前を変えただけの物件は、必ず失敗するということです。外壁を塗り直し、エントランスをきれいにしても、入居者が本当に求めている価値として、動線、収納、遮音、管理体制が変わっていなければ、数年でまた空き始めます。
新党も同じです。理念の再定義、意思決定のスピード、支持者との接点。ここが変わらなければ、単なる「政治的リノベーション風」に終わります。立憲と公明という異なる入居者属性を、同じ建物にどう共存させるのか。その設計図が示されない限り、市場は冷静です。
不動産経営で成功するのは、「誰に貸すか」を先に決めた物件です。ファミリーなのか、単身者なのか、高齢者なのか。ターゲットが曖昧な物件は、結局、誰にも刺さらない。
新党も同様で、どの有権者に、どんな価値を提供するのかが明確でなければ、支持は定着しません。政治も不動産も、長期経営です。短期の話題性より、構造をどう変えるか。
看板の掛け替えはスタートにすぎません。本当に問われるのは、その中身が「いまの時代に住み続けたい場所」になっているかどうかです。新党が成功するかどうかは、見た目ではなく、設計思想で決まります。
これは、不動産経営者なら誰もが、身にしみて知っている原理なのです。
今日も「アキバのつぶやき」に、来てくださってありがとうございます。
2026.01.17
31年も経ったんですね!
今日、一月十七日。 あの未曾有の災害から、三十一年という月日が流れました。
「三十一年」という歳月を、皆さまはどうお感じになるでしょうか。 生まれたばかりの赤子が三十代の中堅社会人となり、当時を知らない世代が社会の多くを占めるようになりました。
三十年という時間は、歴史の大きな流れの中では瞬きのような一瞬かもしれません。しかし、あの日を境に人生の物語が書き換えられてしまった方々にとっては、一日一日の積み重ねがいかほどに重く、深いものであったかと思いを馳せずにはいられません。
鴨長明は『方丈記』の中で、元暦の大地震を目の当たりにし、「およそ世の中のありにくきこと、身と家との、はかなくあだなるさま、またかくのごとし」と記しました。 人の営みの脆さ、そして自然の猛威の前に立ち尽くす人間の無力さ。長明が綴った平安末期の情景と、三十一年前の神戸の街が重なります。中世の人々も、私たちと同じように、足元が揺らぐ恐怖の中で「生」の本質を問い直したのでしょう。
かの同志社大学が大切にしているものに、「良心」という言葉があります。 震災の記憶を語り継ぐことは、単に過去を懐かしむことではありません。それは、他者の痛みを自らのものとして感じる「想像力」を養うことであり、いつ訪れるかわからない困難に対して、私たちはどう隣人と手を取り合えるかという「知恵」を磨くことでもあります。
当時の記憶が薄れゆく「忘却の淵」にあっても、私たちが文学や歴史をひもとくように、あの日起きた出来事を丁寧に振り返り、次の世代へと伝えていく。その営みこそが、亡くなられた方々への鎮魂となり、未来を照らす灯火になると信じております。
冷え込みの厳しい折、被災されたすべての方々に改めて祈りを捧げるとともに、今ある日常という「奇跡」に深く感謝し、今日という一日を謙虚に大切に歩んでいきましょう。
今日も「アキバのつぶやき」に、来てくださってありがとうございます。
2026.01.16
不動産営業の賞味期限
不動産営業にも「賞味期限」というものがあるのではないか。そう感じる場面が増えています。誤解のないように言えば、年齢の話ではありません。問題は、どのやり方で成果を出しているか、という点です。
かつての不動産営業は、足で稼ぐ仕事でした。電話をかけ、訪問し、名刺を配る。その量が、そのまま成果につながる時代が確かにありました。そのやり方で結果を出してきた人ほど、「自分の営業スタイルは完成している」と思いがちです。しかし市場は変わりました。情報は顧客の手の中にあり、営業は「教える人」から「整理する人」へと役割が変わっています。ここで賞味期限が問題になります。
過去に機能したやり方を、そのまま冷蔵保存しても、いまの市場では味が落ちる。にもかかわらず、成功体験が強いほど、やり方を変えられない。これが、不動産営業の賞味期限を早める最大の要因です。一方で、長く求められる営業もいます。彼らは新規開拓の数ではなく、既存顧客との関係の質を高めます。
物件の説明よりも、意思決定の背景を聞く。価格よりも、生活や事業の文脈を理解する。つまり、営業を「売る仕事」から「判断を助ける仕事」へとシフトしているのです。年齢を重ねた営業にとって、これはむしろ有利です。
経験とは、物件数ではなく「失敗と修正の履歴」です。その履歴を言語化できる人ほど、若い営業には代替できません。体力勝負を降り、知的勝負に移行した瞬間、不動産営業の賞味期限は延び始めます。
重要なのは、自分の現在地を正確に知ることです。自分は、いま「誰に」「何を」提供できるのか。新築なのか中古なのか、個人なのか法人なのか、売買なのか賃貸なのか。ターゲットを絞ることは、可能性を狭めることではありません。 賞味期限を明確にする行為です。
不動産営業の賞味期限は、外から決められるものではありません。やり方を更新し、役割をずらし、価値の出し方を変え続ける限り、期限は自分で延ばせます。この仕事は、年を取るほど「売らなくても選ばれる」営業になれる。そういう、数少ない職業なのです。
今日も「アキバのつぶやき」に、来てくださってありがとうございます。
2026.01.15
なぜ今、解散なの?
衆議院議員の解散が現実となりました。いま、どうして高市首相は、今この時をもって、解散することを決断したのだろうか?結論から言えば、「自民単独政権を狙っている面はあるが、それ“だけ”ではない」と思います。
まず前提として、単独政権というのは政治における意思決定コストを最小化する仕組みです。連立政権は、合意形成という“調整”に時間とエネルギーを取られます。企業で言えば、共同出資会社やアライアンス経営に近い。平時はいいが、環境変化が激しい局面では動きが鈍くなる。単独政権を狙う動機は、極めて合理的です。
しかし、ここで重要なのは「本当に単独で勝てると思っているか」という点です。解散は、勝算がなければ打たない手です。世論、野党の分断、争点のぼやけ具合、これらを総合すると「今なら最大化できる」という読みがあった可能性は高い。ただしそれは、単独過半数の獲得というよりも、連立相手に対する交渉力の最大化を狙ったものとも解釈できます。
これは「支配の論理」ではなく「交渉の論理」です。選挙で議席を積み増せば、連立相手は「いなくても何とかなる存在」になる。その瞬間、主導権は完全に自民側に移る。単独政権はゴールというより、交渉上の脅しとしてのオプションです。
もう一つ見逃せないのは、有権者に対するメッセージです。「単独でやらせてほしい」という訴えは、責任の所在を明確にするという点で分かりやすい。これはマーケティングとしては強い。ただし同時に、結果が出なかったときの言い訳が一切できなくなる、というハイリスクな選択でもあります。
要するに今回の解散は、単独政権を本気で取りに行く“賭け”であると同時に、連立の力学を自民有利に組み替えるための戦略的な賭場でもあると思います。
勝てば主導権、負ければ正統性を失う。非常に、「筋は通っているが、筋がいいかどうかは結果次第」。そういう一手だと思います。何事にも、いつかどこかで意思決定しなければならないのです。
今日も「アキバのつぶやき」に、来てくださってありがとうございます。
2026.01.12
もしスーモが撤退したら!
もしドラではないですが、もし明日、突然スーモがなくなったら、不動産仲介業者の多くは、まず青ざめるでしょう。弊社もスーモに広告を依頼しています。自社のホームページだけでは、なかなか集客がままならないのが現状です。
これは、不動産業者であれば皆さん同じ思いではないでしょうか。それだけ、リクルートさんの戦略がすぐれているということの証明です。集客の大動脈が一夜にして断たれる。問い合わせ件数は激減し、営業会議では「どうする?」という言葉だけが空回りする。けれど、この思考実験はとても示唆的です。
スーモは広告媒体であると同時に、業界の業務プロセスそのものになっています。物件情報の整理、写真の撮り方、キャッチコピーの書き方、価格の見せ方。すべてが最適化されてきました。言い換えれば、不動産仲介の価値創造が、プラットフォームに外注されてきたわけです。
これは「戦略の不在がもたらす合理性」です。個々の仲介業者が独自に集客力を高めるより、スーモに乗るほうが合理的。結果として、みんなが同じ土俵に並び、価格と反響数で競う世界ができあがりました。効率は高いが、差別化は消える。よくできた仕組みです。
では、スーモが消えたら何が残るのか。残るのは、地域での信用、顧客との関係、そして「この会社に頼みたい」と思わせる理由です。つまり、本来は最初から持っていなければならなかった競争力です。
面白いのは、スーモがある限り、それを鍛えるインセンティブが働きにくいことです。広告費を払えば、一定の反響が来る。短期的には正しい意思決定です。しかし長期で見ると、自社の物語や顧客資産は蓄積されません。これは便利さがもたらす典型的な罠です。
戦略とは「やらないことを決める」ことだと言われます。もし本気で「スーモがなくなった世界」を想定するなら、いま何をやらないかが見えてきます。反響数至上主義、物件数競争、値下げ合戦。これらをやめたときに初めて、仲介業者としての独自性が立ち上がる。
おそらくスーモはなくならないでしょう。だからこそ、この問いは意味があります。なくならない前提に安住するか、なくなっても生き残る前提で仕事を再設計するか。不動産仲介業者にとっての本当の分岐点は、そこにあると思い日々変化することに挑戦していきます。
2026.01.11
あけおめ退職って、モウムリ!
年明け早々に「退職しました」という報告がSNSに流れる。いわゆる「あけおめ退職」です。勢いがあって清々しい、と感じる人もいれば、無責任だと眉をひそめる人もいるでしょう。しかし、ここで大切なのは善悪の議論ではなく、「なぜこの現象が繰り返し起きるのか」という構造を考えることです。
まず、年末年始という区切りは、人の意思決定を過大に後押しします。これは合理的というより、心理的な装置です。一年を振り返り、新しい年に「何者かになりたい」という気分が高まる。その高揚感が、退職という不可逆的な意思決定を正当化してしまう。戦略論的に言えば、これは「感情が主導権を握った意思決定」です。
一方で、企業側の視点に立てば、あけおめ退職は突発的な事件ではありません。むしろ、静かに蓄積されてきた不満や違和感が、年末年始というトリガーで表出した結果にすぎません。突然辞めたのではなく、「とっくに辞めていた」のです。物理的に席を立ったのが年明けだった、というだけの話です。
問題は、退職そのものではありません。本質的な問いは、その人にとって「辞めること」が戦略になっているかどうかです。次の選択肢が曖昧なまま辞めるのは、自由ではなく単なる不確実性の増幅です。選択肢が増えるどころか、むしろ減ってしまうケースも多い。
戦略とは、やらないことを決めることだと言われます。退職も同じです。何をやらないのか、ではなく、「何に集中するために辞めるのか」が言語化できているかどうか。ここが曖昧なままのあけおめ退職は、後から効いてきます。
新年は希望に満ちた季節です。しかし、希望は戦略の代わりにはなりません。気分で辞めることはできても、構造からは逃げられない。あけおめ退職という軽やかな言葉の裏側には、いつも重たい現実が静かに横たわっています。
だからこそ、辞めるかどうかよりも、「なぜ今なのか」「その先で何を取りにいくのか」。この二つを自分の言葉で説明できるかどうかが、あけおめ退職を単なるイベントにするか、意味のある転機にするかの分かれ目なのだと思います。
2026.01.10
私のカレンダー
私のカレンダーは、世間のそれと少しずれているような気がします。祝日や記念日はきちんと赤く印刷されているのに、なぜか私の生活は、そこではあまり区切られません。むしろ、天気の変わり目や、身体の調子、ふとした言葉に引っ張られて、一日が始まり、終わっていきます。
若い頃は、カレンダーは未来のための道具でした。締切、約束、旅行の予定。先に書き込まれた予定が、私を前へ前へと押してくれました。空白は不安で、何も書かれていない日は、少し怠け者になったような気がしたものです。けれど年を重ねるにつれて、カレンダーの役割は変わってきました。書き込む文字は減り、その代わり、消せない記憶が増えていきます。
病院の予約日、法事の日、誰かの命日。未来よりも、過去と静かに向き合う印が多くなりました。それでも、空白の多い月を見ると、ほっとする自分がいます。予定がないということは、何も起きないという意味ではありません。むしろ、予定外のことが入り込む余地がある、ということなのだと、今は思います。思いがけない電話、久しぶりの来客、突然の散歩。そういうものは、カレンダーには書き込めません。
私はときどき、終わった日付を指でなぞります。何をしたか思い出せない日もあれば、胸の奥が少し重くなる日もあります。それでも、その一日一日を越えて、今ここにいる。その事実だけが、カレンダーの裏側に確かに積み重なっている気がします。
来月のカレンダーは、まだ白いままです。無理に埋めようとは思いません。余白があるから、季節は入り込み、人の気配も忍び込む。私のカレンダーは、予定表というより、生活の余韻を受け止める紙なのかもしれません。
2026.01.09
アリよさらば!
組織の慣性が引き起こす「死の渦」、つまり不祥事の連鎖を止めるのは、ルールや管理の強化ではありません。むしろ、ルールを増やせば増やすほど、アリたちは「ルールを守ること」というフェロモンに縛られるのと同様に、ますます思考を停止させてしまいます。
では、リーダーはどうすればいいのか。それは、現場に対して「筋の良さ」を問い続ける、極めてアナログな対話に集約されると私は考えています。
デス・ミルを止めるリーダーの「3つの問い」、身も蓋もない言い方をすれば、不祥事が起きる現場では「商売としてのセンス」が霧散しています。そこにあるのは「計算」だけです。
リーダーが投げかけるべきは、その計算をストップさせ、個人のセンスを呼び起こすための問いです。
1. 「それは、人間として不自然ではないか?」データが綺麗に揃いすぎている、あるいは何年も全く同じ傾向が続いている。そんな時、リーダーは「素晴らしい成果だ」と褒める前に、「これ、ちょっと不自然じゃない?」と首を傾げる必要があります。 アリの列から離れる最初の一歩は、この「違和感」を言葉にすることです。合理的な計算(スキル)では導き出せない、「何かおかしい」という直感(センス)を組織に共有することが、偽造の温床となる「空気」を壊します。
2. 「もし今日、この業務をやめたら誰が困るのか?」慣性で動いている組織では、手段が目的化しています。「検査すること」自体が目的になり、その先の「安全」が忘れ去られています。 「この書類、本当に誰かの役に立ってる?」という問いをあえて投げかける。もし答えに窮するようなら、そこにはデス・ミルのフェロモンが溜まっています。目的を再定義する問いは、組織の硬直をほぐす特効薬になります。
3. 「その仕事、自分の子供に誇れるか?」最後は、究極の「美意識」の問題です。効率や利益といった「数字のロジック」から一度離れ、「それはカッコいい仕事か、ダサい仕事か」を問う。 捏造や改ざんは、例外なく「ダサい」行為です。リーダーが日常的に「商売の美学」を語り、ダサい行為を許さない姿勢を見せることで、社員は「フェロモンをなぞるだけのアリ」から、自らの意思で歩く「商売人」へと戻ることができるのです。
2026.01.08
法改正にどう対応していくのか。
木造二階建て住宅でも構造計算書の提出が必要になって、一年近くになります。「安全性が高まって良いことだ」と反射的に思う人も多いでしょう。もちろん、それは間違っていません。ただ、ビジネスや制度を少し引いて眺めると、話はそう単純ではないように思います。
これまで木造二階建ては、日本の住宅市場における“量の王者”でした。圧倒的な数が建ち、仕様規定という簡便なルールのもとで、設計・申請・施工が高速に回っていた。言い換えれば、「そこそこ安全で、たくさん建てられる」仕組みが最適化されていたわけです。そこに構造計算書の提出義務が、昨年の4月より加わった。これはルールの変更というより、前提条件の書き換えに近い。
制度を作る側の論理は分かりやすい。
一方で現場では何が起きているか。
すると、不満は制度ではなく、目の前の設計者や工務店に向かう。ここに、制度変更の“静かな摩擦”があります。本来この改正は、「木造住宅をきちんと工学的に扱いましょう」というメッセージのはずです。それ自体は、木造住宅の価値を引き上げる方向の話でもあります。にもかかわらず、運用が追いつかないと、「面倒になった」「遅くなった」という負の印象だけが残る。
これは業務の流れが想像できていない、所謂、ストーリーがまだ完成していない制度ととれます。安全性向上という価値は正しいです。だが、その価値が施主や現場にとって「意味のあるもの」として腹落ちするまでの物語が、まだ設計されていないと感じてなりません。
構造計算書の提出が当たり前になる時代は、止められません。問題は、それを「ただの手間」にするのか、「住宅の質を語る言語」にできるのか。その分かれ目は、制度そのものよりも、それをどう説明し、どう回し、どう納得してもらうか、そしてその運用の知恵にあるように思います。
正しいことは、正しく回ってはじめて価値になる。木造二階建ての構造計算義務化は、まさにその試金石なのかもしれませんね。
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