アキバのつぶやき

2025.12.14

置き配という制度について

 玄関先に荷物が置かれている。置き配という仕組みは、今や珍しいものではなくなりました。にもかかわらず、どこかまだ「仮の制度」のような、落ち着かなさも残っています。盗まれたらどうするのか、安全なのか。そうした不安の声は根強くあります。

 ビジネスの面から考えますと、置き配はきわめて戦略的な選択です。再配達という非効率を減らし、ドライバーの負担を軽くし、社会全体のコストを下げる。その代わりに、ごく小さな不確実性を引き受ける。これは「完璧な安全」を追わず、「全体最適」を取りにいく、明確なトレードオフです。100点を目指さないからこそ、80点が持続する。置き配は、その好例でしょう。

一方で、別のところから目を向けると、置き配の本質は、効率よりも「生活のリズム」にあると、とらまえることもできます。チャイムに縛られず、在宅を気にせず、暮らしを中断しなくていい。玄関にそっと置かれた箱は、「あなたの都合で受け取っていいですよ」という、やさしい合図のようにも見えます。

 考えてみれば、置き配は「信頼」を前提にした仕組みです。ただし、それは堅苦しい信頼ではありません。「まあ、大丈夫でしょう」という、少し肩の力を抜いた信用です。この“ゆるさ”がなければ、どれほど合理的でも社会には定着しません。合理性だけでは人は動かず、気持ちだけでは仕組みは続かない。

 置き配が広がりつつあるのは、戦略としての正しさと、暮らしとしての心地よさが、たまたま同じ方向を向いているからです。段ボール一箱を信じられるかどうか。それは物流の話であると同時に、私たちがどんな社会で生きたいのか、という問いでもあります。

 置き配とは、小さな箱に入った、成熟した社会への試金石なのかもしれません。

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