アキバのつぶやき
2025年12月
2025.12.05
うなぎ
私は、うなぎは年に一度食べるか食べないかで、あまり好物ではございません。先日、鰻の輸入規制が強まるというニュースを見ました。
それでふと、落語の「しわい屋」という演目があるのを知りました。
でも、においにお金を払うなんて、普通なら誰も考えません。そういう“あり得ない話”が、落語の心地よさでもあります。
うなぎの輸入規制の話も、そういう感覚に似ています。お店でふんわり漂うタレのにおい。土用の丑の日の風景。それを“当然の夏の楽しみ”として受け取ってきた私たちのほうが、もしかしたら、しわい屋の店先でにおいだけ楽しんでいく客に近かったのではないか。そんな気がしたのです。
もちろん、誰が悪いとか、何がいけないとか、そういう話ではありません。ただ、うなぎが減っているのだとしたら、私たちのほうも少し足元を見る必要があるのでしょう。
来年は、土用の丑の日に「必ずうなぎを」とは思わないでみる。その代わりに、香ばしいにおいを想像しながら、季節の移ろいにそっと耳を澄ませてみる。そういう夏の過ごし方があってもいいのかもしれません。
しわい屋の店主が言いたかったのは、“においも価値のひとつだ”ということでした。
2025.12.04
奇跡のバックホーム”をめぐる動的平衡
野球という競技は、静と動が交互に訪れる、不思議な時間の流れを持っています。多くの時間は、ただ静かに進む。投手が静かに呼吸し、打者がその一球を待つ。しかし、わずか数秒のうちに、世界の重力がすべて移動する瞬間があります。
その凝縮された瞬間に、人は人生の全てを投影してしまいます。2019年9月26日、鳴尾浜。阪神タイガース、横田慎太郎さんの引退試合。センターへ飛んだ打球を、彼は確かに追っていた。視界は完全ではなかったと言われています。脳腫瘍による後遺症で、外野の景色はぼやけ、歪み、揺れて見えたはずだ。その曖昧さを想像するだけでも、胸の奥が痛む。
それでも、彼は打球に向かって走り出した。力強く、しかし静かに。
その姿は、まるで生命そのものの姿でした。生命は、完全な状態にとどまることができません。絶えず壊れ、絶えず作り直される。
その連続の中で、私たちは生きているのです。
福岡伸一が“動的平衡”と呼ぶその原理が、まさにあの一瞬に凝縮していたのです。 捕球し、そして迷いなくホームへ返したノーバウンド送球。あの一球は、偶然ではないのです。彼が積み重ねた無数の練習、時間、汗、仲間の声援。
それらすべてが、ひとつの軌跡として結晶化したものなのです。 奇跡とは、何も説明不可能な現象のことではない。長い時間の連続が、ある瞬間に形になること。それが私たちの胸を震わせる。
横田さんは28歳で生涯を閉じました。
生命は不均等で、理不尽で、脆い。しかしだからこそ、私たちは一つ一つの瞬間を尊く感じるのかもしれません。野球場でのバックホームは、単なるプレーではなかった。それは、私たちがこの世界に生きているという事実そのものでした。
人はいつも、完璧な視界の中で生きているわけではございません。ぼやけ、歪み、揺れている世界を、それでも前へ進むしかないのです。そのとき、私たちを支えるのは、経験でも才能でもないのです。
生きようとする意志なのです。
横田慎太郎さんの「奇跡のバックホーム」は、私たちの中で静かに生き続けるのです。それは、生命が壊れ続けながら、それでも決して止まらないという事実の、かけがえのない証明にほかならないのです。
ですから、私たちは少しづつ、少しづつ、前に進もうではないですか! 横田さん全力で臨む姿をありがとう。
ご冥福をお祈りいたします。
2025.12.01
無人販売所という、信頼のインフラ
最近、無人販売所をめぐる問題が各地で話題になっています。
設置した野菜が盗まれる、代金箱のお金が抜き取られる。こうした出来事は、一見すると些末なニュースのように見えます。
しかし、その背景にある本質は「小さな盗難」の範疇を超えています。無人販売所が成り立つ前提は極めてシンプルです。「人は基本的に善意に従って行動する」という信頼です。
利用する側も、運営する側も、その前提を共有している。その上に、販売所という小さな社会システムが成立します。ところが、ある日突然、その前提が裏切られる。売り物が持ち去られ、代金箱は空になり、跡形もなく失われてしまう。このとき、失われるのは野菜や小銭ではありません。日々積み重ねてきた信頼という見えない資産が、わずかな時間で崩壊してしまうのです。
そして、その瞬間に心の中に生まれる感情。
それは「怒り」よりもむしろ「むなしさ」ではないでしょうか。対策として、監視カメラの設置という選択肢があります。防犯という観点では合理的で、一定の効果も期待できます。
しかし、無人販売所の屋根にカメラが取り付けられた瞬間、その場所の意味が変質してしまいます。本来は信頼を前提としていた空間が、「疑い」を前提とする空間へと転換してしまうのです。ここで考えるべき問いがあります。
私たちは、何を守りたいのか。盗難の防止だけを目的とするなら、カメラの設置は実務的な正解でしょう。しかし、無人販売所が果たしてきた役割を考えると、答えはもう少し複雑になります。無人販売所は、単に野菜を売る場所ではありません。地域の中に共有された倫理と文化が、形として置かれた場所です。利用する人は「誰も見ていないけれど、誰かに見られているような気持ち」で誠実に行動する。外力ではなく、内在的規律が働く仕組みです。
監視カメラは人の行動を制御します。無人販売所は、人の良心を信じる仕組みです。この差は、社会の質に大きな違いを生むと考えます。盗まれる現実があるとしても、それでもなお信頼を前提に置くこと。
それは、短期的な損得ではなく、長期的な文化形成を選び取る姿勢です。むなしいと感じるということは、まだ信じようとしている証拠です。その感情を出発点にすることで、無人販売所という小さな場所は、ただの販売ではなく、信頼の実験場になり得るのです。
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