アキバのつぶやき
2025年11月
2025.11.16
ポジション
今回の立花孝志氏の逮捕と、その後に示談を申し入れているという報道を受けて、非常に示唆に富んだ構造変化が起きていると感じています。
しかし、今回の件で示談を申し入れるという動きは、従来の「攻め」の戦略から「ダメージコントロール」へと軸足を移したことを意味しています。
一方で、この動きが単なる弱腰ではなく、戦略的撤退である可能性も否定できません。示談の申し入れは、刑罰の軽減やイメージの損失を最小限にするための計算された行動とも考えられます。政治家としての影響力やブランド維持のために、最適解を取りに来ているとも受け取れます。
でも、現時点では、遺族側が示談に応じていないという報道が出ています。交渉の構造としては「提案 — 拒否」のフェーズにあり、まだ出口は見えていません。ここからの行動こそが、立花氏の信頼や評価の行方を決定づけるポイントになるはずです。
結論としては、今回の示談申し入れは、単なる敗北や弱さの露呈ではなく、戦略的転換点と捉えるべきだと考えます。攻勢から調整へ。強さの形を変えながら、リスクを管理する舵取りとも言えます。この分岐点で、立花氏がどのような姿勢を示すかが、今後の影響力を左右するでしょう。
2025.11.15
ブームは再燃するのか?
ブームというのは、たいてい一度きりで終わるもです。ですが、豆乳には「繰り返し戻ってくる力」があります。これは単なる健康志向の波ではなく、日本人の生活リズムに合った“柔らかい必然”のようなものだと思います。
豆乳は、派手な味の主張がございません。だから、流行のスイーツにも、プロテイン飲料にも、カフェラテにも自然に溶け込みます。言い換えれば「主役にも脇役にもなれる」。これは、ビジネスでいえば“共存力”の高さです。
目立たず、しかし長く愛される商品には、この共存力があります。 もう一つ、豆乳の強さは「正しすぎない健康」にあります。人はストイックすぎる健康法には疲れてしまう。青汁のように一度は試しても続かない。それに比べて豆乳は、冷蔵庫に入れておけばなんとなく安心できます。朝のコーヒーに入れるだけで「ちょっと健康的になった気がする」。
その“気がする”という軽やかさが、リピートの正体ではないのでしょうか。 ビジネスでも同じで、「完璧な戦略」よりも「続けられる習慣」が成果を生むといいます。豆乳は、戦略的には控えめだが、習慣としての粘り強さがあります。たんぱく質や美容効果といった“機能”を訴える一方で、味や飲みやすさといった“情緒”の側面を手放しません。そのバランスが心地いいものです。
結局、豆乳ブームが繰り返されるのは、人が「無理なく健康でありたい」という普遍的な欲求を持っているからでしょう。要するに豆乳とは、“頑張らない健康法”の象徴なのです。
2025.11.14
優先座席と譲る心
久しぶりに電車に乗りました。駅構内と車内の風景が変わっていることにすぐに気づいたことがあります。それは、高齢者の数と外国人の乗客が実に多くなったということです。高齢化とインバウンド。どちらも日本社会の現実を映す鏡ですね。
そんな中、帰りの車中で、こころ洗われるほのぼのとした光景を目にすることができました。それは、勤務を終えた初老と見える男性が、乗り込んできたキャリーケースを持った70代らしき女性に、席を譲ろうと座席から少し離れているその女性に、席を離れ声を掛けました。その女性は、「次の駅で降りますので大丈夫です」と、丁寧にお礼を示し辞退されました。
するとその男性は、すかさず横に立っている、幼い子を持つ母親に声をかけ、自分が座っている席をその母親に譲るではないですか!やったー!その好意に従い若い母親は座ってくれました。次の駅に着くまでその母親が子どもに投げかける、何とも言えない愛情湧きあふれる笑顔と接し方が、我が子どもの幼き時代を思い出さしました。しばらくして駅に着くと、その3者は同じ駅に降りたのでした。
優先座席の本質は「席の数」ではなく、「譲り合いの構造」をどうデザインするかにあります。かつての日本では、社会の同質性が高く、暗黙の了解で譲り合いが成立していた。しかし、今は多様化しています。
外国人旅行者は日本式の「気づきのマナー」を知らないし、高齢者の数はかつての倍以上です。そうした状況の中で、数十年前の「固定的な優先座席ルール」で運用するのは、構造的に無理が出てきているのではないでしょうか。
必要なのは、「誰のための席か」ではなく、「状況に応じて機能を変える席」という発想の転換です。時間帯や混雑状況に応じて優先エリアを可変化させるのです。テクノロジーを使えば、そんなことは難しくないでしょう。
たとえば、アプリやLED表示で「いまは高齢者優先ゾーン」などと可視化すればいい。要は、席を増やすよりも「譲る仕組み」をアップデートすること。
2025.11.13
早期退職に見る年齢の壁
大手製造業で50代の早期退職者募集が相次いでいるニュースを見ました。定年を待たずに新たな道を選ぶ人が増える中で、よく聞かれるのが「年齢の壁はあるのか」という問いです。これは転職市場だけでなく、人生のリセットを考える上でも重要なテーマではないでしょうか。
尊敬する楠木建さんなら、「年齢の壁は“事実”としては存在する。しかし“意味”としては存在しない」、というのではないか。制度的にも市場的にも、年齢という数字が影響を持つのは確かです。けれど、それを単なる障害と捉えるか、物語の一部として再定義できるかで、見える景色はまったく違ってくるのです。
50代の転職で問われるのは、「これから何ができるか」ではなく、「これまで何を考え、どう選択してきたか」という経験の“解釈力”です。よく、揶揄されるのが、「かつて○○企業で部長をやっていました。」というのがありますす。
若い人が持つ柔軟性に対し、ミドル世代が持つのは文脈力と関係資産です。企業にとっても、いま必要なのはマニュアル通りの即戦力より、状況を読み解き、人を動かせる人間の厚みです。
結局のところ、年齢の壁とは「自身の人生を物語れないこと」です。自分の仕事の意味を言葉にできないと、どんなに実績があっても価値が伝わりません。言語化力がとわれるのです。逆に、歩んできた道のりを自分の言葉で語れる人は、年齢がそのままブランドになります。 楠木さんならきっとこう締めくくるでしょう。
「転職で問われるのは年齢ではなく、物語の一貫性だ」。
2025.11.11
螺旋の先にあるもの
DNAの二重らせん構造を発見したワトソン博士が亡くなりました。
ワトソン博士の発見は、単なる科学技術ではなく、「人間をどう理解するか」という視点の転換でした。
名古屋の事件では、26年という時間が経っても、DNAが沈黙の中で事実を語り続けていました。記憶や証言は変わっても、分子は嘘をつかない。
科学は時間の流れを敵にせず、むしろ味方にする力を持ちます。過去を再び問い直すことができる。それは人間の知恵の進化でもあります。
DNA鑑定の精度が高まるほど、データの扱い方や倫理の問題も複雑になります。ワトソン博士自身も、晩年に発言を巡って批判を受けました。
だからこそ、私たちは技術そのものではなく、その背後にある「判断の質」を問う必要があります。DNAのらせんは、科学と人間社会の関係そのものを象徴しているようです。
倫理と進歩、発見と誤用が絡み合いながら、私たちは少しずつ前に進んでいく。科学は万能ではありませんが、その螺旋のどこかに、人間の希望と責任の接点がある。ワトソン博士の死と事件の解決は、まさにそのことを静かに教えてくれたように思います。
2025.11.10
当たり前に感謝するという知的な営み
「当たり前のことに感謝しましょう」という言葉は、道徳的な響きが強い。でも、私はこれを「知的な構造の問題」として捉えてみたい。感謝とは、単なる“いい人ぶり”ではなく、人間の知覚構造を再起動させる行為ではないでしょうか。
人間は比較するの動物です。何かと比較しなければその価値が分からないように、人間の脳に埋め込まれています。変化がなければ、ものごとを認識できないようになっています。
朝、電車が時間通りに来ても何も感じないのに、遅れた瞬間に文句を言いたくなる。つまり「当たり前」とは、比較が失われた状態のことです。感謝できないのではなく、比較の基準が麻痺しているのです。
ここでひとつ発想を転換してみます。もし、今日あなたが起き上がれなかったら? もし、スマホが突然使えなくなったら? もし、大切な誰かがもういなかったら?
そう考えた瞬間に、当たり前が“ありがたい”に変わります。これは感情論ではなく、構造の再定義といえます。感謝を習慣にするには、“設計”が必要です。たとえば、毎晩一つだけ「今日ありがたかったこと」を書き出してみる。これは気分の問題ではなく、意識に上げる仕組みです。感謝とは筋トレのようなもの。鍛えなければ鈍るし、習慣にすれば反射的に出てくるもの。
感謝できる人は、長期的にみると強い。なぜなら、怒りや不満は短期的な反応ですが、感謝は長期的な視座を育ててくれます。仕事でも人生でも、“うまくいっている人ほど謙虚”なのは、彼らが「ありがたみの構造」を理解しているからです。
「ありがたい」とは「有ることが難しい」と書きます。つまり、存在そのものが奇跡であるという認識です。これを意識的に取り戻すことが、人生の質を高める最もシンプルで知的な戦略ではないかと思うのでした。
2025.11.09
令和の従業員は梯子を持ち運ぶ働き方が求められる!
「梯子を外される」という言葉には、妙な現実味が存在します。
そこが一番厄介です。
問題は「梯子がなくなった」ことではございません。梯子があることを前提にして生きてきたことが問題です。構造の変化に気づくのはいつも遅い。だから「外された」と感じる。実際には、梯子は誰も外していない。ただ、固定されていたと思っていたものが、もともと不確かな支えに過ぎなかっただけです。
では、どうすればいいのでしょうか。私は「梯子を持ち運べる人」になることが肝心だと思うのです。つまり、自分で足場を設計できる人になろうということです。
会社や制度に依存せず、自分の価値を市場に接続できる人になることです。構造の上に立つのではなく、構造を利用して動ける人。そのために必要なのは、スキルよりも「構造を読む感覚」です。どこに梯子が立てられそうか、どの方向に登るべきか。構造を読み解く眼があれば、梯子を外されても転落せずに済むのです。
そう考えますと、「梯子を外された」と感じた瞬間こそ、実はチャンスとなるのです。自分の足で立つ感覚を取り戻す絶好の機会です。構造が崩れることを恐れるより、構造があるうちに依存してしまうことを恐れたほうがいい。
梯子が外れたとき、ようやく見える景色が現れます。そんな逆説を楽しめるサラリーマンが、これからの時代を生き抜くのだと思うのです。
2025.11.08
午前三時
政治家が「午前3時から仕事をしている」と聞くと、多くの人はまず「すごい」と思います。真夜中の静けさを破って、国の舵取りにあたる姿には、努力と使命感の匂いがします。ですが、ここで立ち止まって考えたいのは「努力の量」ではなく「仕組みの質」です。
経営でも政治でも、重要なのは「どれだけ早く働くか」ではございません。「どんな意思決定の構造をつくっているか」です。午前3時という極端な時間設定は、本人の体力と意志の強さを示すシグナルではあります。でも、システムとしてそれが持続可能なのか、他の人が同じ環境で成果を再現できるのか、という観点が抜け落ちてしまいがちです。また、同時にそれに付随する関係者の存在というものがございます。
「やる気」は個人のエネルギーであり、一時的なブーストです。しかし、「仕組み」は再現性を担保します。前者が短距離走なら、後者はマラソンです。政治も企業経営も、長期戦である以上、個人の頑張りを前提としたシステム設計は危うい状態と思います。むしろ「午前3時でも回る仕組み」ではなく、「午前3時に起きなくても回る仕組み」をどう作るかが本質ではないでしょうか。
それでもなお、高市首相の早朝勤務が象徴しているのは、リーダーの「時間感覚」だと思います。夜明け前の静寂に思考を研ぎ澄まし、日中には見えにくい全体像を描こうとしている。その「先を見通そうとする姿勢」こそが、政治リーダーとしての一貫性を支えているのかもしれません。
「頑張る」だけではなく「仕組む」。それが、真に持続可能な働き方の本質だと思うのです。
2025.11.07
立冬に思う
暦の上では今日から冬です。「立冬」と聞くと、肌寒さよりも、どこか背筋が伸びる感覚があります。季節の移り変わりは、私たちのビジネスにも通じる節目のようなものです。
自然の営みは、人間の経済活動よりもずっと長いスパンで動いています。春に芽吹き、夏に育ち、秋に実り、冬に休む。このサイクルは、一見あたりまえのようでいて、極めて合理的な構造です。
ところが、現代のビジネスの多くは「常に成長し続ける」ことを前提にしています。つまり、冬のない経営です。しかし、自然界に冬があるように、企業や個人にも「休ませる時間」が必要なのではないでしょうか。
立冬の頃に感じる静けさは、成長のための余白です。木々が葉を落とすのは、無駄を捨ててエネルギーを内側に蓄えるため。ビジネスにおいても同じことが言えます。商品やサービスを増やすばかりでなく、いったん立ち止まり、何を「減らすか」「やめるか」を見極めること。それが、次の春を迎えるための準備になるのです。
私は「経営とはリズムの設計である」と思うのです。速さよりも、リズムの良さが持続を生む。立冬はそのリズムを整える絶好のタイミングです。焦って走るよりも、冬の静寂の中で深く呼吸し、次の動きに備える。そんなビジネスの在り方があってもいい。
2025.11.06
不確実性を生きるには
この数年、世界はずっと落ち着かない。昨日の常識が、今日にはもう古くなっている。ニュースを見ても、SNSを眺めても、「何を信じて生きればいいのか」と疲れることが増えた。 でも、そんな不確実な時代を生き抜くコツは、案外シンプルなのかもしれない。私は最近、五つの小さな処世術を自分なりに持つようにしている。
二つ目は、よく観察すること。
三つ目は、小さく試すこと。いきなり大きな決断をするのではなく、少しだけやってみる。その反応を見て、また考える。この「小さな実験」の繰り返しが、案外いちばん確実なのだと思う。
四つ目は、人とつながること。たとえ目的がなくても、誰かと話す。メールでも雑談でもいい。関係があるだけで、少しだけ安心できる。人とのゆるいつながりは、想像以上に大きな支えになる。
最後は、あいまいさを認めること。すぐに白黒つけたくなるけれど、「わからないままでも生きていける」と思うようにしている。未来はいつも未完成だ。それでいいのです。
不確実な時代を生きるって、たぶん、完璧じゃない自分を許すことなのだと思う。焦らず、比べず、観察して、少しずつ進む。
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