アキバのつぶやき

2025年09月

2025.09.30

AI経営者という未来像

 経営というのは、一言でいえば「意思決定の連続」です。これまでは人間の経営者がすべてを背負ってきましたが、AIが経営に踏み込む時代が見え始めています。AI経営者という発想は決してSFではなく、実際のビジネス現場から芽を出しつつあるのです。

 
 たとえば、アリババやアマゾンのような巨大EC企業では、すでにAIが価格設定や在庫配置をリアルタイムで判断しています。そこに人間の「社長の勘」は入り込む余地がほとんどありません。合理的な最適化は、AIに任せた方が確実に成果を上げる。これは経営の一部がすでにAI化されていることを示しています。

 また、米国の投資ファンドではAIを「ファンドマネージャー」として登録し、銘柄選択を任せた例もあります。AIは感情に振り回されず、膨大なデータに基づいた冷徹な判断を下す。これが「人間の弱さ」を補う役割として有効に機能しているというわけです。不動産業界でも、AI査定というものも散見されています。それは過去の膨大な成約事例を基に、はじき出してきますので、AIが得意とする仕事です。その強みは、営業に取り入れることは大事です。ただ、不動産の取引というのは、当事者である人間が決断することで成り立ちますので、双方の思いというものが大きな要素として存在します。

 ですので、ここで見落としてはいけないのは、「経営も営業は単なる数字の足し算や掛け算だけではない」という事実です。たとえばスターバックスの成長を振り返ると、単なるコーヒーの販売最適化ではなく、「第三の場所」というコンセプトを掲げたからこそ、世界中の顧客の共感を集めました。こうした物語を生み出す力は、AIにはまだ持ち得ない領域です。

 結局のところ、AI経営者の登場は人間を置き換えるものではなく、「役割の再分配」を促すものです。合理性やデータ解析はAIに委ね、人間は物語や理念を描き、社員や顧客の心を動かす。むしろAIが進化するほどに、人間の経営者にしかできない部分が浮き彫りになると思うのです。

 経営とは「答えを出すこと」以上に「問いを立てること」。AIが得意なのは答えであり、問いを生むのは人間です。AI経営者の時代にあっても、未来に意味を与える問いを立て続けるのは、やはり人間の仕事なのです。

 AIはどこまでも人間世界が進化向上する道具でしかないという事を肝に銘じ、質の高い質問を作り、気分の良い物語をつくっていきたいものです。

2025.09.29

パーマン

 AIの話題を耳にするたびに、私は藤子・F・不二雄の「パーマン」を思い出します。特に「コピーロボット」の存在です。本物のパーマンが学校や日常生活に出かけている間、コピーが机に座って代わりを務める。外見も声もそっくりで、ぱっと見には本人と区別がつきません。この仕組みは、現代の働き方におけるAIの役割と驚くほど重なります。

 いま私たちが直面しているのは、AIという「仕事のコピー機」をどう使うかという問題です。メールの仕分け、資料作成、会議の議事録作成。これまで人間が多くの時間を費やしてきた作業を、AIが短時間でこなしてくれる。

 いわばコピーロボットが机に座って宿題を片づけてくれるようなものです。そのおかげで私たちは、本当に人間にしかできない仕事に時間を振り向けられるようになる。

 ただし、ここに落とし穴があります。パーマンの物語では、コピーロボットを使いこなせずにトラブルを起こす場面がよく描かれます。コピーは万能ではなく、あくまで「代理」に過ぎません。AIも同じです。便利だからといって全面的に任せきってしまうと、判断の主体を失いかねません。

 働き方改革が叫ばれる中で、AIに頼り過ぎれば「人間不在の効率化」になってしまう危険性があるのです。
むしろ大切なのは、AIを導入することで「働く意味」を再定義することです。人間が本当に価値を発揮できるのは、他者との関係を築く場面や、未踏の問題をどう解くかを考える場面です。

 コピーにはできない、人間ならではの創造や共感。それこそがAI時代における働き方の核心になります。
AIは現代のコピーロボット。便利で頼もしいけれど、それに依存するのではなく、活用することで「人間の仕事の本丸」を浮かび上がらせる。そう考えると、働き方の未来はもっと前向きに描けるのではないでしょうか。

2025.09.28

失敗と書いて何と読む?

 「失敗と書いて、成長と読む」。この言葉は、名将・野村克也監督の名言です。ただ、私はここにちょっとイタズラを加えて「失敗と書いて、学びと読む」と置き換えてみたいのです。

 
 失敗を経験するのは、たとえるなら自転車に乗れるようになる過程に似ています。誰もが最初は転びます。膝をすりむき、泣きそうになりながらも、ペダルをこぎ続ける。その度に「次は少しバランスを取ってみよう」と小さな修正を繰り返す。ここで得られているのは「成長」ではなく、まさに「学び」そのものです。成長はその先に見える副産物に過ぎません。
 
 ビジネスでも同じですね。新規開拓の営業であったり事業が思ったように成果をあげられなかったとしましょう。普通なら「失敗」の烙印が押されます。しかし、その背後には「顧客はなぜ反応しなかったのか」「どの仮説が甘かったのか」という、改善の宝の山があります。学びを抽出しない限り、失敗はただの赤字決算ですが、学びに変換すれば、それは次への投資になります。

 面白いのは、学びは「時間軸に対して前向き」であるということです。失敗を「成長」と読むと、どうしても結果が出るまで我慢大会になってしまう。間違った努力の方向に向かう危険性があります。けれど「学び」と読むと、その瞬間にすでに収穫があります。転んだ直後に、「なるほど、ここでハンドルを切りすぎたか」とわかるように、失敗は即時にリターンをもたらしてくれるのです。
 
 野村監督の言葉を借りれば、成長は学びの累積効果。だから私は、まず「学び」と読むことを意識したいと思います。失敗は怖いものではなく、未来の行動をより良くするための情報提供者なのだと思うことで、落ち込む頻度も少なるのではないでしょうか。勇気を出して失敗を恐れず、正しい努力を継続させましょう。

 最後に、努力は裏切らないと野村監督は言い切ります。

2025.09.27

世論調査について

 企業経営において「国語による世論調査」を考えますと、これは単なる教育や文化の話にとどまりません。むしろ経営そのものの核心に触れるテーマだといえます。なぜなら、企業を動かしているのは最終的に「言葉」だからです。

 会社の理念、ビジョン、スローガン。これらはすべて言葉で表現されます。売上や利益という数値目標はもちろん大切ですが、人が腹落ちして動くのは数字そのものではありません。「私たちは何のためにこの事業をしているのか」という問いに、納得感のある言葉で答えること。そして、物語を語ることです。ここに経営の本質が宿ります。
 
 国語による世論調査は、社会の言葉の選び方や意味の変化を映し出します。例えば「挑戦」という言葉ひとつをとっても、以前はリスクをとる勇敢さの象徴でしたが、いまでは自己成長や学びの姿勢を含む柔らかなニュアンスで使われます。企業がその変化をつかめているかどうかで、社員や顧客とのコミュニケーションの質は大きく変わります。
 
 顧客アンケートや市場調査では数字ばかりを追いがちですが、その裏にある言葉を丁寧に拾うことが重要です。たとえば「便利」という声ひとつでも、スピードなのか、分かりやすさなのか、安心感なのか、意味するところは人によって違います。言葉の解像度を上げる努力なしに、真の顧客理解はありえません。
 
 つまり経営における「国語の世論調査」とは、単なる言語の流行を知ることではなく、社会がどんな言葉に共鳴し、何を拒んでいるのかを掴むことに他なりません。その洞察が、組織のビジョン設計や商品開発の方向性を決定づけると思うのです。
 
 企業経営は数値で回すものではなく、言葉で動かすもの。言葉をどう扱うかが、成果を分ける最大の経営資源だといえるでしょう。
聖書にあるように、「はじめに言葉ありき」ですね。「気」なしに言葉を発することを、慎まなければいけないと、強く思うばかりです。

2025.09.26

「李下に冠を正さず」と前橋市長会見

 組織のリーダーにとって大事なのは、「正しいことをすること」と「正しく見えること」、どちらがより重いのでしょうか。

先日の前橋市長の記者会見を見て、この問いが浮かびました。市長の言動自体に直接の違法性はございません。しかし、場面の切り取り方やタイミング次第で「怪しい」と受け取られる。ここに「李下に冠を正さず」という故事が重なります。スモモの木の下で冠を直すだけで、盗んでいると疑われるかもしれない。つまり、誤解を招く状況そのものを避けよ、という戒めです。
 
 重要なのは、実態よりも人々の認知です。私たちが誰かを信頼するかどうかは、合理的な検証ではなく、直感的な印象で決まることが多い。これは政治に限らず、ビジネスの現場でも同じです。

 営業マンが顧客の前でスマホを操作していれば、「仕事をサボっている」と思われるか、「迅速に調べている」と評価されるかは文脈次第です。行為そのものよりも、相手に「どう見えるか」が信頼を左右します。

 だからこそリーダーには、「誤解されない仕組み」をあらかじめ設計しておく責任があります。政治であれば透明性の担保、ビジネスであればプロセスのオープン化です。実態の正しさを守るだけでは不十分で、「正しく見える」ようにデザインしなければ信頼は積み上がらないのです。

 「李下に冠を正さず」は、単なる消極的な自己規制ではありません。むしろ積極的に「誤解を生まないように振る舞いを設計せよ」という戦略的なメッセージと読むべきです。前橋市長の会見を契機に、改めてリーダーには「説明責任」と同じくらい「誤解されない責任」が問われているのだと感じました。

 言い訳をする前に、誤解されない行動を常に心掛けなければ、公人としては失格ではないでしょうか。さきの参議院選挙で、国民民主党から公認を外された、元女性国会議員と重なりました。

2025.09.25

結果と成果の違い

 結果と成果。この二つはよく似た言葉ですが、実はまったく違うものを指しています。ビジネスの現場でも、この違いを取り違えると方向性を誤ってしまいます。

 「結果」とは、ある行動の直接的なアウトプットです。たとえば営業の月間契約件数やキャンペーンでの来店数。数字で測定でき、短期的に確認しやすいものです。写真のようにその瞬間を切り取った「点」の情報だといえます。

 一方で「成果」とは、その積み重ねによってもたらされる長期的な価値です。顧客からの信頼、リピート購入、紹介が生まれる仕組みの定着。これは時間をかけてしか見えてきません。成果はすぐに数値化できない場合も多く、むしろ「後から効いてくる」ものです。
 
 たとえば、営業担当が一度きりの契約を無理やり取りに行くと、短期的には数字という結果が出ます。しかし顧客体験を損ねてしまえば、長期的にその顧客は離れ、成果にはつながりません。逆に、短期的には件数が少なくても、顧客の課題を丁寧にヒアリングし、信頼関係を築いた担当者は、数年後に安定した取引や紹介という成果を手にする可能性が高いのです。
 
経営においても同じです。四半期決算での利益という結果を追うあまり、社員教育や新規事業への投資をおろそかにすると、将来の成果を失うリスクがあります。成果にこだわる経営は、結果を一喜一憂せず、時間を味方につけながら価値を積み重ねていく姿勢なのです。

 結果と成果は、信用と信頼の違いに似ています。結果主義とは表現せず成果主義といい、信用関係ではなく、信頼関係がしっくりと肚落ちします。ということは、判定時間をどこに置くかによって、関係という言葉に意味がもたらさせるのではないでしょうか。
 
 つまり、結果は「点」であり、成果は「線」。点が集まって線になるのですが、線の美しさや強さを決めるのは、そのつなぎ方にあります。成果を意識すれば、日々の結果は単なる数字ではなく、未来につながる布石に変わると信じています。一つ一つの行動の結果を、自分なりに解釈することを怠りなく、日々内省し、明日へつなげていくことが、積もり積もって、人生となるのでしょうね。
 

2025.09.23

国勢調査がやってきた!

 昨晩、自宅に帰りますと、ポストに国勢調査票と配布員さんの不在書類が投函されていました。それを見て、少し違和感を感じました。ドッグイヤーどころではない今日において、いまだに同じやり方を踏襲しているのかという事です。


 国勢調査と聞くと、多くの人は「また来たか」と思うかもしれません。5年に一度、総務省が行うこの一大イベントは、国家の基礎データをつくる極めて重要な事業です。人口動態や世帯の実態が政策の根拠となるのだから、やらないわけにはいきません。ここまでは誰もが納得するところでしょう。
 
 でも、その実施方法を冷静に見てみると、「これは本当に必要か」と首をかしげたくなる費用が散見されます。例えば、紙ベースの調査票を全戸に配布し、回収するための人員動員。調査員への手当、印刷費、配布・回収の物流コスト。さらにオンライン回答が普及した後も、紙と併用することで二重の仕組みが温存されています。結果的に「念のため方式」になってしまっているのです。
 
 もちろん「高齢者やネット環境のない世帯がいる」という事情は理解できます。ただ、ここは費用対効果を冷静に見直すべきタイミングに来ています。調査の目的は「全数を把握すること」ですが、実際には欠損データを統計的に補正する技術はすでに確立しています。全戸一律に同じ方法を強いるよりも、オンラインを標準化し、紙は希望者のみとする仕組みに転換すればよいのではないかとおもうのです。これだけで数百億円単位の節約は可能だと思います。
 
 加えて言えば、行政がすでに持っているデータベースとの連携を進めれば、調査票自体が不要になる領域もあります。住民基本台帳、税務情報、社会保障データ。これらを匿名化・統合して活用すれば、調査の精度はむしろ上がる可能性すらあります。技術的にも制度的にもハードルはあるが、少なくとも「ゼロベースで方法を再設計する」議論を始めることは避けて通れないでしょう。
 
 国勢調査のような国家的事業は、「とにかく例年通り安全に」という発想に陥りがちです。しかし、無駄を温存することは国民の負担を温存することと同義です。重要なのは「伝統だから続ける」ではなく「目的を果たすために最適な手段は何か」を問い直すことです。データ収集のあり方をアップデートすることこそ、次の国勢調査に向けて考えるべき論点だと思います。

 

2025.09.22

伝えるから、伝わるへ!

 ビジネスの現場でよく耳にするのが「ちゃんと伝えたのに、伝わっていない」という嘆きです。会議で資料を説明した、メールを出した、あるいはプレゼンをした。確かに「伝える」行為はやっています。にもかかわらず、相手の行動や反応は期待通りにならない。ここに、「伝える」と「伝わる」の間の大きな断絶があります。

 「伝える」というのは、発信者側の作業です。資料を作り、言葉を発し、データを並べる。そこには自己満足が潜んでいます。「これだけやったんだから、わかってくれるだろう」という淡い期待。しかし「伝わる」という現象は、受け手の頭と心の中で起きることであって、発信者がコントロールできる範囲は限定的です。つまり、伝えることと、伝わることは別のゲームなのです。

 では、この溝をどう埋めるかが、課題となります。私の拙い経験から言えば、コツは「相手の物語に乗せる」ことです。人間は情報で動くのではなく、意味づけで動くといわれています。数字や論理は必要ですが、それがどのように相手の利害や感情に接続されるかが勝ち負けの分水嶺です。

 たとえば新しい企画を通したいなら、「市場シェアが伸びる」だけでは弱い。「あなたの会社の強みと直結している」あるいは「この取り組みが将来のキャリアにプラスになる」といった相手のストーリーに結びつけたとき、初めて情報が血肉化して、「伝わる」になります。


 さらに言えば、伝えるときの余白も重要です。すべてを説明し尽くすより、相手が自分の頭で補完できる余地を残した方が、理解が深まります。映画のラストシーンを観客の想像に委ねるように、「伝わる」体験は受け手の参加によって完成するのです。

 結局のところ、「伝える」は技術で、「伝わる」は現象。話し方の著書などを読んだり、話し方教室に通って技術を磨くことは、それは大事ではありますが、現象を引き起こすには、相手の立場や文脈に徹底的に感情移入し、相手の物語に寄り添う必要があると思います。

 「伝えたのに伝わらない」のではなく、「伝わる形に変換できなかった」と、考える方が生産的です。
要するに、伝えることは自己満足の出口、伝わることは相手の物語への入り口。この距離をどう設計するかが、ビジネスコミュニケーションの肝であり、本質だといえるのではないでしょうか。

2025.09.21

暗黙知を言語化する力

 今年の阪神タイガースは、めっぽう強かった。何十年と優勝のないBクラスに低迷していた過去が噓のよう。そんな阪神タイガースを語るとき、野村克也氏の存在感は圧倒的です。

 監督として迎え入れられた当時の阪神は、スター選手はいても組織としてはバラバラで、勝つための「型」を持たないチームといわれています。野村氏はそこで「ID野球」を掲げ、データと戦略を徹底的に植え付けていきました。企業経営で例えれば、属人的なひらめきに頼るワンマン経営から、仕組みを組織に埋め込むマネジメントへの転換といったところでしょうか。

 その薫陶を受けた一人が、現監督の藤川球児氏である。藤川監督は、圧倒的な直球で観客を魅了しながらも、野村監督から「球児、お前の真っ直ぐはなぜ打たれないのかを自分で説明できるか」と問われたという。

 つまり、才能を持つ選手にこそ、その根拠を言語化し、再現可能なモデルに落とし込め、という要求です。これは経営や営業の現場でもよくある話で、成功した事業や商談を「勘と経験」に帰着させるか、それとも誰がやっても成果が出る仕組みに昇華できるかで、その後の持続性は大きく変わってきます。
 
 現監督としての藤川氏の姿を見ると、彼はまさにその教えを継承しているのではないでしょうか。若手投手に「なぜストレートが通用するのか」「配球にどんな意図があるのか」を問い、ただの感覚に頼らない指導をしていると聞きます。選手の身体能力をリスペクトしつつ、それを再現可能な「知」として共有する。この言語化と構造化の作業こそが、チームを強くします。
 
 野村克也から藤川球児へ!この継承は、単なる世代交代ではなく、「暗黙知を形式知にする」という学習プロセスの連鎖です。経営でも組織開発でも同じです。偉大な個人の力を「再現可能なシステム」に翻訳することが、組織が持続的に強くなる唯一の道筋であると思います。阪神の歴史を通じて見えてくるのは、野球という競技を超えて、普遍的な経営の原理そのものなのではないでしょうか。

2025.09.20

バカと無知を読んで・・・。

 橘玲さんの『バカと無知』を読んで印象に残るのは、人間は自分の無知を知らない、というシンプルかつ残酷な事実です。私たちは合理的に意思決定をしていると思い込みがちですが、現実はそうではない。むしろ「自分は分かっている」という錯覚こそが、組織や経営における最大のリスクになるのです。

 経営の歴史を振り返ると、この構造は至るところに見つかります。たとえば米国のブロックバスター。2000年代初頭、すでにネットフリックスがオンライン配信という新しいモデルを提示していたにもかかわらず、「DVDレンタルというビジネスは盤石だ」と信じ込み、変化に背を向けました。

 その結果、数年後には市場から姿を消しました。ここには「自分たちは分かっている」という過信と、無知を直視できなかった経営の失敗がはっきりと表れています。

 日本でも同じです。かつての携帯電話業界では、国内市場で勝っているメーカーが「ガラケーは日本の独自進化だ」と自信を持っていました。ところがiPhoneという外部からの衝撃が来たとき、対応が遅れ、市場は一変した。これもまた「自分は知っている」という錯覚が招いた典型例です。

 『バカと無知』の重要なメッセージは、「人は無知である」ことを前提にして問いを立て直す必要がある、という点です。経営において本当に大切なのは、将来を正しく予測することではありません。未来は誰にも読めないのですから。
 大事なのは、「自分たちが知らないことは何か」「どこに思い込みがあるか」「私たちのノンカスタマーは誰か」という問い持ち続けることです。

 問いの質を上げることで、経営の質も高まります。逆に言えば、問いを間違えれば、どれほど優れた戦略や計画も無意味になります。人間がバカで無知であるという前提を受け入れること。それは経営者にとって、自分の思考を謙虚に保つ最も現実的な方法論なのです。

 結局のところ、『バカと無知』は人間の限界を笑う本ではありません。むしろ「限界を前提にした賢さ」の手がかりを与えてくれる本です。過去の企業の失敗は、私たちの愚かさの証拠でもあるし、それを認めて問いを立て直せば、未来に向けての武器にもなる。バカと無知を嘆くのではなく、それを引き受ける。

 そこに経営と人生の共通点があるのだと感じました。