アキバのつぶやき

2025年08月

2025.08.31

相続した不動産の売却方法は?

 相続した不動産をどうするか――これは、多くの方が一度は直面する課題です。売却した方がいいのか、持ち続けた方がいいのか。誰にとっても「絶対の正解」が見つからないのは、不動産という存在が、単なる資産である以上に、家族の思い出や歴史を背負っているからでしょう。

 AIの時代になって、不動産の相場や売却のシミュレーションは、以前よりずっと簡単に確認できるようになりました。たとえば「今売ればいくらになるのか」「税金はいくらかかるのか」といった合理的な答えは、AIが正確に示してくれます。けれど、それだけで心は決まりません。不動産には、合理的な価値と、心の中の価値とが同居しているからです。


 相続した家に、幼い頃の記憶が詰まっている人もいれば、維持管理の負担に悩む人もいます。早く現金化して兄弟姉妹で公平に分け合うことが「正解」と感じる方もいれば、多少時間がかかっても「納得できる相手に引き渡したい」と考える方もいます。そのどれもが間違いではなく、それぞれの心に寄り添った選択なのです。
 
 AIにできるのは、選択肢を広げ、判断を支えること。最終的に「どの答えを選ぶのか」は、家族の関係性や自分自身の納得感によって決まっていきます。

 だからこそ、相続不動産の売却に唯一の正解はありません。正解は「外にあるもの」ではなく、自分自身と家族が「これでよかった」と思えるところに生まれてくるのだと思います。AIは道しるべ、そして舵を握るのは、私たち自身なのです。

 そのお気持ちに寄り添ったサポートと提案を心掛けることが、私たち不動産事業を営む者の必須のスキルです。過去の売却事例を持論に持つことなく、一人一人のご相続人様と真摯に向き合って、ご納得いただくことを目指して、明日からも日々ささやかでよいので進化してかないといけませんね。

2025.08.30

嘗て宇宙人といわれた男

 もうすぐ9月、秋の気配を感じる頃となりましたが、飛び込んできたニュースに、ふと立ち止まって考え込んでしまいました。

鳩山由紀夫元首相が、来月3日に北京で行われる「抗日戦争勝利80年記念行事」にご出席なさるというお話です。


 記事によれば、それは「極めて軍事色の濃い式典」であり、北朝鮮の金正恩総書記やロシアのプーチン大統領も出席される予定なのだとか。
この一報に接し、心に去来したのは、日本の元首相という重い立場の方が、そのような場に臨むことの意味についてでした。記事によりますと、刑法でこれまで一度も適用されたことのない「外患誘致」という重い言葉まで引き合いに出され、その刑が「死刑」以外に定められていないとまで書かれています。

 もちろん、これは極端な見方かもしれませんが、それほどまでに国民の間に懸念がある、という筆者の気持ちが伝わってきます。
ご長男である国民民主党の鳩山紀一郎衆院議員が、X(旧ツイッター)で「父には出席の取りやめを要請しました」と発信され、「日本の元首相が中国政府の戦勝記念行事に出席する必要はありません」と釘を刺されたのも、ご家族としての、そして国会議員としての真摯な思いが滲み出ているように感じられます。

 ご子息の切なる願いが、鳩山元首相の耳に届くことを願わずにはいられませんが、記事の筆者は「鳩山氏の耳には届くまい」と、どこか諦めにも似た見方をしているのが印象的です。

 かつて国の舵取りを任された方が、今、どのようなお考えでその席に臨もうとされているのか。その真意は測りかねますが、国民の一人として、複雑な思いを抱かずにはいられない、そんな晩夏のニュースでした。

2025.08.28

似て非なるもの

 人の行動を説明するとき、「原因」と「目的」という二つの考え方があります。原因というのは過去から今を説明する視点です。たとえば「人と話すのが苦手なのは、子どものころの体験が影響している」というようにです。これは理解には役立ちますが、どうしても「仕方がない」と感じてしまうことがあります。
 一方で、目的という考え方があります。アドラー心理学では「人は原因ではなく目的によって行動する」と言います。つまり「人と話すのが苦手なのは、嫌われないように距離をとるという目的を選んでいるから」と見るのです。ここで未来を意識すれば、「これからは信頼関係を築くことを目的にしてみよう」と、自分で新しい行動を選ぶことができます。
 
もちろん、過去を振り返ることも無意味ではありません。なぜなら、これまで自分がどんな目的を選んできたのかを知ることは、未来に向けて新しい目的を描く手がかりになるからです。

 結局のところ、原因は過去を語る物語であり、目的はこれから選ぶ道しるべです。人が本当に変わるのは、未来にどんな自分でありたいかを選んだときなのだと思います。

 ビジョンをもって仕事に従事することが、何にもまして大事だということですね。

2025.08.26

信頼と信用

 信頼と信用という言葉は、似ているようでいて実は異なる性質を持っています。私は長らく住宅不動産の世界に身を置いてきましたが、この二つを混同すると判断を誤ることが少なくありません。

 信頼とは、人と人との関係性の中に自然と芽生えるものです。家族や友人との間に築かれるのは、相手の人柄や誠実さに基づいた信頼です。それは「この人なら裏切らないだろう」という感覚であり、数値や契約に裏付けられたものではありません。

 一方で信用とは、数値や実績、そして制度によって担保されるものです。銀行がお金を貸すときに拠り所とするのは、その人の返済能力を示す信用です。過去の返済履歴や収入状況といった「目に見えるデータ」に基づき、貸すか貸さないかを判断します。
 また、企業が従業員に支払う給料や賞与も、ひとつの信用にもとづいて、支給額の差が発生していると思います。過去の実績や、業績、日々の勤務態度といった評価によって判断します。つまり信用は取引の土台であり、ルール化された関係の中で機能します。
 

 現代社会を見渡すと、どうしても「信用」の比重が大きくなりがちです。スコア化や数値化によって人を評価しようとする仕組みが広がっているからです。しかし、これだけでは社会はうまく回りません。数字の裏側にある人間の意志や心を信じる「信頼」がなければ、協力や共感は生まれにくいのです。逆に言えば、信頼の上に築かれた信用こそが、長期的に持続可能な関係を支えます。
 

 私は、この二つのバランスが大切だと考えています。信頼があるからこそ信用が厚みを持ち、信用を守る努力があるからこそ信頼が深まる。両者は対立する概念ではなく、補い合うものです。営業活動や会社経営においても、人間関係においても、この循環を意識できるかどうかが、大きな違いを生むのだと思います。

2025.08.25

愚痴

 米大リーグの大谷翔平選手が高校時代に掲げていた座右の銘をご存知ですか?

 それは、「真剣だと知恵が出る。中途半端だと愚痴が出る。いい加減だと言い訳ばかり」という言葉です。戦国武将・武田信玄の言葉とされ、まさに大谷選手の「覚悟」が伝わってきますね。

 さて、一方の石破茂首相は、「愚痴が多い」と指摘されています。例えば、アフリカ開発会議(TICAD)の夕食会で「首相をやっていると、あんまり楽しいことはない」とぼやき、昨年12月の講演では「普通の閣僚の何倍もしんどい」「新聞を読んでも誰もほめてくれないし、ネットをみれば本当に悲しくなる。寝る時間もほとんどない」とまでこぼしたそうです。5月の国会でも睡眠時間に触れ、「愚痴めいてごめんなさい」と釈明しています。

 これに対し、立憲民主党の小沢一郎議員はSNSで「総理にとって楽しい日本など必要ない」と指摘しました。真剣に職務に取り組む大谷選手のような姿勢と、時にこぼれる「愚痴」との対比は、私たち自身の仕事や責任への向き合い方を考えさせられます。


 大谷選手の言葉は、リーダーシップのあるべき姿を示しているのかもしれません。

2025.08.24

隠された心理とは

 お恥ずかしい話ですが、率先してやろうともせず、「すいません、できませんでした!」と言うことが、過去にありました。さすがに、還暦越えの歳になって、そのような機会は少なくなりました。どうでしょう、皆様も大なり小なり、ご経験がおありではないでしょうか。

 例えば、資料作成の締切に間に合わない。営業の数字が伸びない。契約がまとまらない。顧客対応でトラブルが続く!理由はいくらでも並べられます。そこで、以前から興味があり、勉強してきたアドラー心理学によりますと、それは「できない」のではない。
「やらない」という選択をしているに過ぎないのだといいます。そこには必ず目的があるというのです。

 仮に、プレゼン資料を期限までに仕上げられなかった社員がいるとします。彼は「忙しかった」と言いますが、本当のところは「完璧に作れなければ恥をかく」という不安を回避するために、あえて完成させなかった。あるいは「自分は能力が足りない」と周囲に思わせておくことで、責任を軽くする意図があるのかもしれません。つまり「できない」の裏側には、自分を守るための戦略が隠れているとのこと。
 営業職にしても同じです。目標に届かないことを「市場が悪い」「商品力が弱い」と説明する人がいます。ですが、その人は心のどこかで「成果を出せば次はもっと高いノルマを課される」という予感を抱き、それを避けるために本来の力を出し切らないかもしれないと。これは怠けではなく、防衛本能の一種であり、本人なりに筋が通った行動でもあるとしています。
 「そうかなぁ?」と、どうもアドラー心理学は、私には少し腑に落ちないところもあるのですが、肯定するとすれば、どのように解釈すれば良いのでしょう。

 つまり、アドラー心理学では「原因」ではなく「目的」を洞察することを勧めています。それは、上司が部下の失態を叱責するときや、フィードバックミーティングをする場面で、「なぜできなかった?」と問うのではなく、「あなたが、その選択をすることで、何を得ようとしたのか?」という質問を勧めています。それによって、本人に気づきを促すだけでなく、組織全体が責任転嫁の堂々巡りから抜け出すことができる良い質問を発することであると、位置づけています。

 このことから、所属する企業の就業規則や、随時発せられる業務改善指示令なるものに対して、素直に我が事として従順できない社員や、自分の都合のよいように拡大解釈して、是正しようとしない社員がいると想定しますと、「決められた指示に反した行為を選択することで、何を得ようとしたのですか?」という重い質問が必要になります。
 もちろん、人は弱い。誰しも失敗したくないし、また、反対に自分の思う通りに行動したいと思います。しかし、一方で他人の評価に怯えます。ですが、もう自分は、「やらない」という選択をしていると、意識し自覚できたとき、人はようやく自由になるのではないでしょうか。

 その理由は、他者の責任にせず、自分の目的に焦点を当てて物事を思索することになるからです。会社という小さな社会でも、この視点と自負があるだけで、心も空気も少し軽くなるのではないのかなぁ。

2025.08.23

よーいドン!

 関西テレビの番組のことではございません。

 小学生の時は、運動会が好きではなかった。元々、競争心といいますか、虚栄心が強かったのでしょう。他人に負けることと、「どんべ」になるのが恥ずかしいという、自己顕示欲が強かったのです。

 ふと、当時の記憶が蘇ってきたので、アラ還となった今となっては、競争するような運動はしないので、実生活に置き換えてみました。もし、この合図がなかなか鳴らない状況となった場合、実生活ではストレスの縮図のように感じられます。
 
 たとえば、仕事で言えば、新しい企画書を仕上げて提出したのに、上司からの決裁がいつまでも下りない場面です。こちらは走る準備を整えているのに、スタートの合図が出ないために、動けず焦燥感だけが募っていきます。

 家庭においても同じようなことが起こります。住宅購入や転職などの大きな決断をする際、家族の意見がまとまらず、話し合いだけが続いて結論が先延ばしにされる。本人としては動き出したいのに、合図が出ないまま待たされることで、エネルギーが消耗していくのです。準備段階の緊張は、短時間であれば集中力を高めますが、長く続くとむしろ不安や苛立ちへと変わり、強いストレスにつながってしまいます。

 そこで、考えられる重要なものは、「ドン」を他者に委ねすぎないことです。日常の中で自分が小さな合図を出す工夫をすれば、停滞は緩和されます。たとえば、決裁が遅れているなら確認のメールを送ってみる、家庭の議論が進まないなら選択肢を整理して提示してみる。そうした行為は大きな一歩ではなくても、自分自身に「今、動いている」という感覚を与え、ストレスを軽減します。

 人生には必ず待つ時間があります。しかし、その待ち時間をどう過ごすかによって心の負担は変わります。自分で小さくても「ドン」を鳴らす習慣を持つことが、現代社会を生き抜くうえでの大切な知恵だと考えます。

 ご相続された不動産のご売却の場面では、「ドン!」の合図が出るまで、何かお役に立てられる関係構築のフォローが何か、しっかりと考えて小さな「ドン」を鳴らしていきたいと思います。

2025.08.21

自信について

 お疲れ様です。

 先日、ある記事を読み、営業活動における自信について深く考える機会を得ました。その記事には、自信には2つの種類があると書かれていました。

一つ目は、「結果を得られた自分への自信」です。

 この自信は、よく言われているもので、努力して望む結果を手にした時に得られる感情です。でも、結果は努力だけでなく、運や環境にも大きく左右されるものです。そのため、望む結果が得られなかった際に、自信を失ってしまうというリスクがあるタイプです。これは自信ではなく、「期待」という感情に近いのではないかと思います。
 
 俗にいう、報酬を目的とした行為とも言えます。この感情で仕事をしていれば、その結果によって、仕事に対する感情のムラがでるのは当然でしょう。
 そして二つ目こそが、私が営業としてまた、人生において人として本当に大切だと感じる自信です。それは、「努力し続ける自分への信頼」です。つまり、「自分には実力をつけるまで努力を積み重ねる能力があり、価値のある人間である」と信じることです。「今はまだまだだけれど、自己の抱く理想に、意志し続ける力を持っている」と、心に描き続けるとも言えます。

 この自信の素晴らしい点は、運や結果に左右されないことです。日々の愚直で地道な努力だけで培うことができる、まさに私たち営業に従事する者にとって常に持ち続けたい感情のひとつです。

 この努力ベースの自信を育む具体的な方法は、今日自分が「○○ができた」ということを意識的に言語化することです。例えば、「今日は新規顧客に5件訪問または電話ができた」「A様の相続空き家の課題を、深くヒアリングできた」など、どんなに小さなことでも、「できた」或いは、「今日はそれに対して最大限、努力できたか?」と振り返り、言葉にして認識することです。

 この習慣を身につけることで、着実にこの2つ目の自信が蓄積されていくと気づきました。
真の自信とは、奢ることなく自分を信じ、主体的に歩み続ける力。私たち営業も、日々の努力を大切にし、この揺るがない自信を育てていきましょう。

 きっと、どんな状況でも前向きに進み続けられるはずです!

2025.08.19

花火

 最近の花火大会を見ていると、日本人の祭りに対する感覚が、この数年で少し変わってきたように感じます。以前は、夏の夜空を彩る一大イベントとして、街全体がそこに照準を合わせ、家族や友人が浴衣姿で繰り出すのが定番でした。しかし、コロナ禍を経て再開された花火大会は、単なる復活ではなく、新しい形に進化しているのです。

 まず目立つのは、花火大会の規模や形式の多様化です。大規模な人出を避けるために、打ち上げ場所や時間を直前まで非公表にする「ゲリラ花火」や、複数の小規模会場で同時開催する方式が広がりました。その結果、偶然空を見上げた瞬間に広がる花火の驚きや、生活圏の中でふと感じる季節感が、むしろ新鮮に映ります。


 さらに、近年の花火は技術面でも進化しています。コンピュータ制御による打ち上げタイミングの精密化や、LEDドローンと花火のコラボレーションなど、もはや伝統芸と先端技術の融合です。中でも、音楽と完全にシンクロする「ミュージック花火」は、観客の感情を一気に引き込み、まるで夜空に描かれるライブパフォーマンスのような迫力を生み出しています。


 一方で、運営側の課題も少なくありません。安全対策や交通規制、警備体制の強化はもちろん、地元住民への配慮も求められます。花火の轟音や人の流れは、時に生活環境への負担ともなり得ます。だからこそ、地域と共生する形での開催が重要であり、そこには運営者の創意工夫と住民との対話が欠かせません。


 私たちが花火を見上げる時間は、せいぜい数十分。しかし、その裏には、長期間にわたる準備と多くの人々の協力があります。そして、その一瞬の美しさを共有することで、人々の心が緩やかにつながり、日常の延長線上に小さな奇跡が生まれるのです。


 最近の花火は、ただの夏の風物詩ではなく、時代の変化や人々の価値観のシフトを映す鏡でもあります。形は変われど、その魅力は変わりません。夜空に咲く一瞬の光が、また来年への期待を灯すのです。

2025.08.18

お墓参りには、生花と造花どちらをお供えしますか?

 今年のお盆は、お墓参りに行けませんでした。お彼岸には、妻と行けるといいですが、ダメなら一人で行こうと思っています。
さて、ふとまようのが「お供えする花は生花がいいのか、造花がいいのか」ということです。私は毎年この時期になると、妻にどこで生花を買う?と相談します。

 何と言いましても生花には、その時々の季節感や香り、色合いのやわらかさがあります。お墓に供えた瞬間、しっとりとした空気が漂い、故人との距離がぐっと縮まるように感じられます。ただ、真夏の暑さや強い日差しの下では、せっかくの花も数日でしおれてしまうことがあります。遠方から帰省してお墓まいりをした後、すぐにはまた来られない方にとっては、その儚さが少し心残りになるかもしれません。

 一方、造花は手入れの必要がなく、長くきれいなまま保てます。最近は造花の質も上がり、遠目には生花と見間違うほどのものもあります。特にお墓が人里離れた場所にあり、頻繁に足を運べない場合には、造花は実用的です。ただ、やはり香りや瑞々しさはなく、無機質で季節感という点では生花に到底及びません。

 そこで私は、車で1,2時間程度の距離にお墓がある方は、お盆やお彼岸のお墓まいりのときだけは生花を供え、その以外は造花に替えるというのが良いのではないかと思うのです。お盆の期間は故人を想う気持ちを生花であらわし、その後の管理や美観は造花で保つ。これは現実的で、かつ気持ちの区切りとしても、良い方法だと感じます。

 そもそも大切なのは、生花か造花かという選択ではなく、その花を供えるときの気持ちです。どちらを選んでも、そこに込めた思いはきっと故人に届くはず。お墓の前で手を合わせる時間、そして花を選ぶひととき。それを、届けたいという心。それらすべてが、お盆という節目にふさわしい大切な行いではないでしょうか。

 私はありがたいかな、1時間程度の移動で、それぞれのお墓がございますので、お彼岸には生花をお供えしよっと。