アキバのつぶやき

2025.12.26

レジェンド

 ジャンボ尾崎氏の訃報に接し、「レジェンド」という言葉について、あらためて考えさせられました。
ジャンボ尾崎」正式には尾崎将司氏。日本ゴルフ界において、この名前を知らない人はいないでしょう。通算113勝。数字だけを見ても異常値です。

 しかし、ジャンボ尾崎の本質は、勝利数の多さそのものではありません。むしろ、彼が長い時間をかけて築き上げた「物語」にこそ、レジェンドたる所以があります。
ビジネスの世界でもそうですが、レジェンドとは単なる成功者ではありません。一時代を象徴し、その時代のルールや価値観そのものを変えてしまう存在です。

 ジャンボ尾崎は、日本のゴルフを「趣味の延長」から「プロが職業として成立する世界」へと引き上げました。賞金額、トレーニング、プロ意識。どれも彼が基準を引き上げた結果です。
興味深いのは、ジャンボ尾崎が「孤高」であり続けた点です。弟子は多く育てましたが、決して迎合しない。派閥にも属さず、流行にも流されない。

 これは戦略論で言えば「非対称性の徹底」です。周囲と同じことをしないからこそ、比較不能な存在になった。レジェンドとは、比較されない人のことなのです。
また、彼は勝ち続けること以上に「衰えをさらすこと」から逃げませんでした。年齢を重ねてもツアーに出続け、勝てなくなった自分を引き受ける。

 その姿勢は、成果主義が行き過ぎた現代において、むしろ重みを増して見えます。レジェンドとは、成功の頂点ではなく、成功から下る坂道も含めて語られる存在なのだと思います。

 ジャンボ尾崎の訃報に触れて感じるのは、ひとつの時代が終わったという感慨と同時に、「もう同じタイプのレジェンドは生まれにくいだろう」という現実です。

 効率化、最適化、データ重視の時代において、破天荒で、個の圧力だけで時代を動かす存在は、構造的に生まれにくい。
だからこそ、ジャンボ尾崎はレジェンドなのです。再現性がない。教科書にしても、その通りやっても同じ結果にはならない。その不可解さ、説明不能さこそが、レジェンドの条件なのだと思います。

合掌。

2025.12.25

カリスマ創業者

 ニデックの創業者である永守重信氏が、突然、経営の第一線から退くというニュースがありました。多くの人が驚いたと思いますが、私はこの出来事を「事件」としてではなく、「必然」として見たほうが理解しやすいのではないかと感じています。

 永守氏は、日本の経営者の中でもきわめて例外的な存在です。強烈な意思、圧倒的な行動量、そして細部にまで及ぶ執念。ニデックという会社は、良くも悪くも、その人格がそのまま組織化された企業でした。創業者経営とはそういうものですし、むしろそれがあったからこそ、ニデックは世界企業になったのだと思います。
 
 しかし、創業者の強さは、ある段階から「強み」と「制約」の両方になります。創業者が正しすぎると、組織は学習しにくくなる。判断が速すぎると、周囲は考える前に従うようになる。これは能力の問題ではなく、構造の問題です。

 今回の辞任が示しているのは、経営の成否ではなく、経営のフェーズが変わったという事実でしょう。創業者が前に立って引っ張る段階と、組織が自律的に回る段階は、必要とされるリーダーシップがまったく異なります。両方を同じ人が完璧にやるのは、ほとんど不可能です。
 
 ここで重要なのは、「後継者が誰か」よりも、「創業者がいない状態で、意思決定が回るかどうか」です。個人のカリスマに依存していた企業ほど、この移行は難しい。だからこそ、辞任は遅すぎても、早すぎてもいけない。
 
 永守氏の辞任は、ニデックにとってのリスクであると同時に、最大のチャンスでもあります。創業者の影から自由になったとき、会社は初めて自分自身の実力を問われる。ここを越えられるかどうかで、ニデックが「偉大な創業者の会社」で終わるのか、「創業者を超える組織」になるのかが決まる。

 創業者が去るとき、その企業は成熟するか、弱体化するか、どちらかです。永守氏の突然の辞任は、その分岐点が、いまここにあるということを静かに示しているのだと思います。

2025.12.23

冬至

 昨日は冬至でした。一年でいちばん昼が短い日です。 
冬至というと、「これから日が長くなる」とよく言われます。たしかに暦の上ではそうなのですが、体感としては、まだまだ寒さはこれからが本番です。

 明るくなる感じもしないし、気分が急に前向きになるわけでもありません。 でも、冬至には不思議な安心感があります。「いちばん底の日」だと、はっきり決まっているからです。

 ここから先は、少しずつですが、必ず昼は長くなっていく。その事実が、静かに背中を支えてくれます。かぼちゃを食べたり、ゆず湯に入ったりするのも、無理に元気を出すためではなく、「ちゃんと今日を越えましたよ」という合図のようなものなのかもしれません。

 理由を細かく知らなくても、毎年同じことをするだけで、季節と足並みがそろいます。冬至は、何かを始める日というより、「折り返し地点に来ました」と確認する日と思います。派手な節季ではありませんが、だからこそ、生活の中にすっとなじむ。昨日は特別なことはせず、早く暗くなる空を見て、「ああ、今日は冬至か!」と思うだけでした。それで十分です。

 寒さの底に立っていると知るだけで、人は案外、落ち着いていられるものです。

2025.12.22

フラット35の限度額増額をどう考える!

 フラット35の限度額が1.5倍になるというニュースは、不動産業界・住宅業界に身を置く人間にとっては、正直なところ「助かる話」です。成約のボトルネックが一つ外れるからです。買いたい人が増えるのではなく、「買える人」に見える人が増える。この違いは小さいようで、本質的です。

 ここ数年、住宅価格はじわじわと、しかし確実に上がっています。建築費、人件費、資材価格。どれも下がる理由がありません。その一方で、実需層の所得が劇的に伸びているわけでもない。結果として現場では、「物件はあるが、通らない」「欲しいが、届かない」という宙づり状態が常態化しています。

 そこに限度額1.5倍です。これは需要喚起というより、需給のズレを金融で埋めにいく施策と見るべきでしょう。業界的には、成約率が上がり、価格調整をせずに済む。短期的には歓迎すべき話です。ただし、ここに構造的な危うさもあります。

 不動産業界は、価格が上がるときほど「売れる理由」を制度のせいにしがちです。金利が低いから、制度が拡充されたから、という説明は、お客様にとって分かりやすい。しかしそれは、物件そのものの価値ではなく、借りられる力に依存した売り方でもあります。

 金融の下支えがあるうちは、市場は静かに回ります。しかし、もし金利環境が変わったらどうなるのか。限度額が広がった分だけ、出口の選択肢は狭くなる。中古市場での流動性、買い替え耐性、そして担保価値。これらは、後になって効いてきます。

 不動産業界にとって本当に必要なのは、「いくらまで借りられますか」という話よりも、「この物件は、環境が変わっても持ち続けられますか」という問いを提示することではないでしょうか。制度に背中を押されて売るのは簡単です。しかし、信頼を積み上げるのは、いつも逆風のときです。

 フラット35の限度額1.5倍は、業界にとっての追い風であると同時に、足腰を試す風でもあります。その風にどう向き合うかで、不動産業者の真価が問われているように思います。

2025.12.21

口は禍の元だけですませてはいけない!

「核を持つべきだ」という発言は、あまりに強い言葉なので、つい是非論に引きずられます。しかし、戦略論として重要なのは賛成か反対かではなく、「なぜその言葉が出てきたのか」を考えることが、大切です。 

 核武装論は、究極の手段を語っているようで、実は“手詰まり感”の表明でもあります。通常戦力、同盟関係、外交努力、それらが十分に機能しているという実感があれば、核という選択肢はそもそも俎上に載りにくい。核の話題が出るということ自体、既存の安全保障のストーリーが説得力を失っている兆候なのだと思うのです。

 戦略とは、選択肢を増やすことではなく、選ばなくて済む状況をつくることでもあるのです。核は選択肢の中で最も重く、最も取り返しのつかないカードです。それを「持つか持たないか」で議論している時点で、戦略の議論としてはかなり拙いとしか言えません。

 本当に問うべきなのは、「日本はどのような前提条件のもとで安全を設計してきたのか」、そして「その前提は今も有効なのか」という一点です。核を語ること自体が目的化した瞬間、戦略は感情論に変わります。強い言葉ほど、思考停止を誘います。

 だからこそ、こういう発言に接したときほど、いちばん静かな問いを立てる必要があると思うのです。