アキバのつぶやき

2026.02.06

再び不動産営業の病とは?

 不動産営業の現場で、最も多い敗因は何でしょうか。能力不足でも、知識不足でもありません。実はもっと単純で、しかも致命的な原因です。それは、「始めない」という選択です。

 多くの営業マンは、「もう少し準備が整ってから動こう」と考えます。市場環境が良くなってから、新しいツールを導入してから、上司の理解が得られてから。理由はいくらでも見つかります。しかし、その間にも市場は動き、顧客は意思決定を終え、競合は行動しています。

 不動産市場は、待ってくれる相手ではありません。
不動産営業における差は、スキルの差ではなく、開始時点の差でもありません。「始めたかどうか」の差です。一本の電話をかけたか、一件の訪問をしたか、一つの提案を出したか。その事実だけが、市場との接点を生みます。接点のない営業は、存在しないのと同じです。

 ここで誤解してはいけないのは、行動できないことが必ずしも怠慢ではないという点です。先日もつぶやいた、京都大学の研究が示すように、人間の脳は「嫌な行動」に対してブレーキをかけるように設計されています。価格交渉、クレーム対応、新規開拓。不動産営業の本質的業務は、すべて心理的負荷を伴います。

 つまり、多くの営業マンはサボっているのではなく、合理的に回避しているのです。
問題は、その合理性を放置する組織にあります。営業力を「やる気」で説明する会社は、戦略を放棄しています。やる気を問い続ける組織ほど、行動を設計していません。

 結果として、営業は属人化し、成果は偶然に依存し、再現性は失われます。
優れた不動産会社は、営業マンに勇気を求めません。代わりに、始めざるを得ない構造をつくります。行動のハードルを極限まで下げ、失敗のコストを可視化し、小さな成功を制度化する。

 営業とは精神論ではなく、設計の問題なのです。
人生の問題は、始めるのが遅いことではありません。始めないことが、唯一の致命傷なのです。不動産営業とは、その残酷な真理を、毎日の数字で突きつける職業だと言えるでしょう。

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2026.02.05

マスコミとの付き合い

 スポーツニュースでは「雪不足で練習ができない」と嘆き、天気予報では「80年ぶりの大雪」と伝える。同じ放送局の、同じ一日の出来事です。にもかかわらず、そこに違和感を覚えない人の方が多い。

 私は、この現象にマスコミの本質が表れていると思います。重要なのは、どちらも事実であるということです。雪が足りない場所もあれば、雪が降りすぎた場所もある。現実はもともと複雑で、矛盾に満ちています。しかし、マスコミはその複雑さをそのまま伝えません。文脈ごとに世界を切り分け、分かりやすい物語として提示する。

 つまりマスコミとは、世界を説明する存在というより、「編集する装置」なのです。問題は、編集された世界を、私たちが「現実そのもの」だと誤解してしまう点にあります。雪不足と大雪は、本来なら同じ気候変動の文脈で語られるべき現象でしょう。

 しかし、スポーツはスポーツ、天気は天気という枠組みの中で語られることで、両者の関係性は見えなくなります。結果として、私たちは断片化された現実だけを受け取ることになります。マスコミは嘘をついているわけではありません。しかし、真実を語っているわけでもない。

 彼らが提供するのは、切り分けられた「部分的な正しさ」です。そして、その部分的な正しさが積み重なることで、全体像はますます見えなくなります。これは、組織や社会で起こる「逸脱の正常化」とよく似ています。世界を断片化して語ることが当たり前になり、その違和感が忘れられていく。

 私たちはいつの間にか、「編集された世界」に慣れてしまうのです。マスコミとは何か。それは現実の鏡ではなく、現実を都合よく切り取るレンズなのかもしれません。そして、そのレンズを通して世界を見ることに慣れたとき、私たちは本当の現実を見失うのではないでしょうか。

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2026.02.02

不動産営業に潜む、やる気ブレーキ

 不動産営業は、やる気の世界だと思われがちです。行動量、根性、数字への執念。営業成績は努力の結果であり、成果が出ないのは本人の意欲不足だと語られることも少なくありません。

 しかし、京都大学が発表した「やる気ブレーキ」の研究を読むと、この常識がいかに単純化された理解であるかが見えてきます。人は本来、やる気がないから動けないのではありません。むしろ、やる気があるからこそ、失敗のコストを計算し、行動を抑制する。
 
 脳の中には、アクセルだけでなくブレーキが存在する。京都大学の研究は、そのブレーキ回路が「嫌な課題」や「ストレスを伴う行動」に対して強く働くことを示しました。

 それでは、
不動産営業の現場に置き換えてみましょう。新規開拓の電話、飛び込み訪問、価格交渉、クレーム対応。これらはすべて、心理的負荷を伴う行為です。多くの営業マンが行動を先延ばしにするのは、怠慢ではなく、脳が合理的にブレーキを踏んでいる結果だと言えるでしょう。

 問題は、このブレーキを「気合い」で突破しようとする組織文化にあります。根性論は一時的にアクセルを踏ませることはできても、ブレーキそのものを取り除くことはできません。むしろ、精神的負荷が増すほど、ブレーキは強化され、行動はますます困難になります。結果として、営業組織は疲弊し、離職率だけが高まる。

 優れた営業組織は、やる気を煽る前に、ブレーキを軽くする設計を行います。例えば、商談プロセスの分解、成功確率の可視化、失敗の許容範囲の明確化。行動の心理的コストを下げる仕組みをつくることこそが、戦略なのです。

 不動産営業の本質は、個人の意欲ではなく、行動を促す構造にあります。営業力とは、アクセルの強さではなく、ブレーキをどう設計するかの問題なのかもしれません。やる気を問い続ける組織は、往々にして戦略を欠いています。 京都大学の研究は、不動産営業を「精神論」から「設計論」へと引き戻す示唆を与えているように思います。

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2026.02.01

欲望の直結と、センスの欠如

 先日、東京大学の教授が逮捕されたというニュースを見ました。共同研究の見返りに、銀座のクラブや吉原のソープランドで接待を受けていたという、なんとも「ベタ」というか、昭和の汚職事件をタイムスリップさせたような話です。もちろん、法を犯したことの是非は論を俟(ま)ちません。

 ただ、私がこのニュースを聞いて真っ先に感じたのは、「あぁ、ここにも『センス』の欠如があるなぁ」という、一種の脱力感に近い感想です。

 1. 「知の権威」と「市場の欲望」のミスマッチ今回の事件の本質は、大学が「社会連携講座」という名の下に、学術的な権威を民間資金と交換する仕組みの中にあります。これ自体は、今の国立大学が置かれた「自ら稼げ」というプレッシャーを考えれば、戦略的には真っ当な判断です。

 でも
、そこに介在する個人のインセンティブ設計が完全にバグっていた。件(くだん)の教授は、自らの専門性という「ストック」を、高級クラブの接待という極めて「フロー」な欲望に直結させてしまった。本来、アカデミアの世界に身を置く人間にとっての最大の報酬は「研究の自由」や「知的なインパクト」であるはずなのに、それをあっさりと「銀座の夜」に換金してしまったところに、インセンティブの強烈なミスマッチがあります。

 2. 公私混同という「センス」の問題私が常々申し上げているように、仕事において最も大切なのは「センス」です。スキルは教えられますが、センスは教えられない。今回の佐藤容疑者に欠けていたのは、「公」という舞台で「私」の欲望をどう飼い慣らすか、というバランス感覚としてのセンスです。「みなし公務員」という立場は、社会から「公の信頼」という無形の資産を託されている状態。それを、業者を脅して風俗店を予約させるという「私」の醜悪な振る舞いで浪費する。これはもう、戦略論以前の、人間としての「趣味の悪さ」の問題です。

 3. 「見なし」の鎖が届かない場所「自分は公務員ではない、民間から金を引っ張ってきた功労者だ」という過剰な自意識があったのかもしれません。しかし、制度というものは非情です。今回彼を縛り上げたのは、他ならぬ「みなし公務員」という法的な縛りでした。彼は「学問の自由」という特権を享受しながら、その裏側にある「公的な責任」というコストを支払う覚悟がなかった。 おいしいところだけを食おうとして、結局は喉に骨を詰まらせたわけです。

 結局のところ、どんなに立派な組織改革をしても、個人の「センス」が欠けていれば、欲望は最短距離で暴走します。東大の藤井総長が「痛恨の極み」と仰るのも分かりますが、本質的な再発防止策は、ガバナンスの強化以上に「センスの悪い人間を重用しない」という、極めて主観的で、かつ最も難しい人事の選審にあるのかもしれません。……と、私のような人間が偉そうに言うのも何ですが、やはり「夜の街」の支払いは自分の財布でするのが、一番ぐっすり眠れるということだけは確かです。

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2026.01.31

パンダ

 最近、各地でパンダの返還が続いています。ニュースとしては穏やかですが、よく考えると少し不思議な光景です。動物園の人気者であるパンダが、国際政治の文脈で語られる。

 ここに、人間の政治の本質がよく表れているように思います。パンダそのものは、何も語りません。ただ竹を食べ、寝て、愛嬌を振りまくだけです。しかし人間は、その無垢な存在に意味を付与します。友好の象徴、関係改善の証、あるいは距離感のサインとして。パンダは動物である前に、政治的なメッセージになっているのです。

 興味深いのは、この関係が極めて非対称である点です。パンダは「貸与」され、返還期限があり、繁殖の成果すら管理されます。そこには、感情や好意ではなく、極めて合理的な国家戦略があります。かわいいからではなく、効くから使われる。ここが重要です。

 国家間の関係は、言葉や条約だけでなく、象徴で語られることがあります。象徴は分かりやすく、感情に訴え、コストが低い。パンダ外交は、その点で非常に優れた手段です。相手国の世論に直接作用し、しかも対立を柔らかく包み込む。これは、かなり洗練されたやり方だと思います。

 一方で、私たちはついパンダの側に感情移入してしまいます。返還を惜しみ、寂しさを語る。しかし、そこにこそ政治の巧みさがあります。人々が動物に向ける純粋な好意を、国家は静かに借りているのです。

 パンダが返っていくという出来事は、関係の変化そのものよりも、「関係はいつでも道具化されうる」という現実を示しています。
人間の政治は、合理的で、冷静で、そして少しだけ無慈悲です。そのことを、パンダは何も知らないまま、今日も檻の中で笹をかじっています。

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