アキバのつぶやき

2025.12.20

毎年の定番!

 クリスマスが近づくと、テレビの編成表が、そっと同じ顔を見せてくる。

 ああ、今年も来たな、と思う。その顔はだいたい『ホーム・アローン』だ。
この映画は、観るための映画というより、「確認するための映画」なのかもしれない。ケビンがひとりで家に残されて、あの音楽が流れると、「あ、今はもう年末だ」と身体のほうが先に理解する。頭で考える前に、季節が合図を出してくる感じ。

 子どものころは、いたずらの痛快さだけを観ていた。ペンキ缶がぶつかって、泥棒がひっくり返る。そのたびに、笑った。でも大人になって観ると、笑いの背景がちょっと違って見える。
 
 あれだけ大人数で移動して、ひとり足りないことに気づかない。これはコメディだけど、集団というものの、案外あてにならなさも描いている。それでも、この映画はやさしい。
 
 最後には、ちゃんと家族が戻ってくる。家は壊れかけても、関係は壊れない。そこが、毎年繰り返しても耐えられる理由なんだと思う。毎年同じ映画が流れるというのは、変わらないようでいて、実は少しずつ意味が変わっている。観ているこちらが変わるからだ。だから『ホーム・アローン』は、毎年「初見」でもあり、「再会」でもある。
 
 クリスマスは特別なことをしなくてもやってくる。でも、こういう決まりごとがあると、人はちゃんと立ち止まれる。今年もここまで来たね、と自分に言える。ケビンは今年も一人で家を守る。そして私たちは、それを横目に見ながら、静かに一年をたたむ準備をする。

 たぶん、それでいい。

2025.12.19

年収の壁は撤廃できないのだろうか?

 年収の壁が178万円まで引き上げられることで、自民党と国民民主党の税制調査会長が合意した、というニュースが流れました。数字だけを見ると、また少しややこしい話が増えたな、という印象を持つ人も多いかもしれません。

 しかし、こういう制度変更は、たいてい「理屈」よりも「現場」で効いてきます。私はいつも、そこがいちばん大事だと思っています。年収の壁というのは、制度としてはとても人工的なものです。ある金額を一円でも超えると、手取りが減る。働いた分だけ報われない、という奇妙な段差が存在してきました。
 
 その結果、多くの人が「これ以上は働かないほうが合理的だ」という判断をしてきたわけです。これは怠けでもズルでもなく、きわめてまっとうな意思決定です。
今回、その壁を178万円まで引き上げるという合意は、少なくとも「働きたい人が、働くことをためらわなくてよい」方向に一歩動いた、という意味では評価できると思います。

 重要なのは、これが減税かどうかという議論ではありません。人の行動がどう変わるか、です。
企業経営の世界でも同じですが、人はインセンティブに極めて素直に反応します。制度設計が「やらない方が得」になっていれば、人はやりません。逆に、「やった方が自然に得」になっていれば、わざわざ号令をかけなくても動きます。

 年収の壁とは、まさにその典型でした。
ただし、ここで安心してはいけません。壁を動かすたびに、また別の場所に新しい壁ができる。制度をパッチワークのように直していく限り、この問題は形を変えて残り続けます。

 本来問われるべきは、「なぜ壁が必要なのか」という設計思想そのものです。
178万円という数字は、ゴールではなく、通過点です。大切なのは、この合意をきっかけに、「人が自然に働ける制度とは何か」を考える議論が始まるかどうか。そこにこそ、このニュースの本当の価値があるのだと思います。いろいろな壁が世の中には存在します。壁は出来るだけ無いほうがいいとおもうのですが、いかがでしょうか。

2025.12.18

表記統一について

 ヘボン式ローマ字の表記を統一しよう、という話を聞くと、私はいつも「便利って、どこまでが便利なんだろう」と考えます。ヘボン式というのは、日本語をアルファベットで書くときに、できるだけ“発音どおり”に見せようとした仕組みです。
 
 だから「し」はshiだし、「つ」はtsuになります。英語を知っている人には、たしかに親切です。問題は「ん」です。「しんぶん」がshimbunになったり、「さんぽ」がsampoになったりする。これは間違いではなく、実際の発音に近づけた結果です。でも、ここで人は少し立ち止まります。「同じ『ん』なのに、どうしてnとmが混ざるの?」と。

 表記統一をしよう、という声は、たぶんこの“立ち止まり”を減らしたいのだと思います。ルールは一つのほうが覚えやすい。コンピュータにもやさしい。役所の書類も混乱しない。たしかに、そのとおりです。でも、言葉って、もともとそんなにきれいに揃っていないものです。

 人の口は、生きものですから、次に来る音に合わせて、ちょっとサボったり、ちょっと近道をしたりする。「ん」がmに近づくのも、がんばらないための知恵です。ヘボン式は、その“がんばらなさ”を、そのまま写そうとした、とも言えます。

 統一する、というのは、乱れを正すことのようでいて、実は、こぼれ落ちる情報もあります。発音の気配とか、口の動きとか、「あ、こう言ってるんだな」という身体感覚です。

 全部をnにしてしまえば、整いますが、少し平らにもなります。たぶん大事なのは、「どちらが正しいか」ではなく、「何のために使うか」です。パスポートやデータ管理では統一が強い。

 言葉の面白さや、人間っぽさを味わうなら、揺れも悪くない。ヘボン式の「ん」がnとmに分かれるのは、優柔不断だからではありません。人の口が、ちゃんと人であることを、忘れないようにしているだけなんだと思います。そう考えると、ちょっと愛おしくなってきませんか。

2025.12.15

あなたは「通」ですか、それとも「推し」ですか?

 むかしは、「○○通」という言い方がありました。映画通、酒通、蕎麦通。その道にくわしい人のことを、ちょっと敬意をこめて、そう呼んでいた。「通」という字には、どこか細い道をすいすい歩いていく感じがあります。普通の人が気づかないところまで知っている。裏道も、抜け道も、ちゃんとわかっている。だから、その人の話は信用できる、という空気がありました。

 でも、最近はどうでしょう。「通ですか?」と聞くよりも、「推してますか?」と聞く場面のほうが多い気がします。この「推す」という言葉、よくできています。くわしいかどうかは、あまり問題にしていない。体系的に説明できなくてもいい。「なんか好きなんです」「気になっちゃって」という、それだけで成立する。

 これは、言葉が軽くなったのではなく、人の立ち位置が変わったのだと。「通」は、どこか少し高いところから見ている言葉でした。対象を理解し、評価し、語る側。一方で「推す」は、対象のすぐそばに立っています。完成度よりも、距離の近さ。正しさよりも、関係性。

 情報が少なかった時代は、知っていること自体が価値でした。でも今は、知識はすぐに手に入る。だからこそ、「どう感じているか」「どれだけ時間を使っているか」が、その人らしさになる。推し活というのは、熱狂ではなく、日常に近い行為かもしれません。 成長を見守ったり、失敗に一緒にがっかりしたりする。それは鑑賞というより、応援であり支援です。

 「通」は、完成品を味わう人。「推す」は、途中経過を一緒に生きる人。どちらが上という話ではありません。ただ、今の時代は、「好きです」と言える人の声が、少し前よりも大事にされている。それは、悪くない変化だと思います。詳しくなくてもいい。うまく説明できなくてもいい。それでも、何かを大切に思っている。「推す」という言葉には、そんな人の居場所が、ちゃんと用意されている気がするのですが、皆様はどう感じられますか?

2025.12.14

置き配という制度について

 玄関先に荷物が置かれている。置き配という仕組みは、今や珍しいものではなくなりました。にもかかわらず、どこかまだ「仮の制度」のような、落ち着かなさも残っています。盗まれたらどうするのか、安全なのか。そうした不安の声は根強くあります。

 ビジネスの面から考えますと、置き配はきわめて戦略的な選択です。再配達という非効率を減らし、ドライバーの負担を軽くし、社会全体のコストを下げる。その代わりに、ごく小さな不確実性を引き受ける。これは「完璧な安全」を追わず、「全体最適」を取りにいく、明確なトレードオフです。100点を目指さないからこそ、80点が持続する。置き配は、その好例でしょう。

一方で、別のところから目を向けると、置き配の本質は、効率よりも「生活のリズム」にあると、とらまえることもできます。チャイムに縛られず、在宅を気にせず、暮らしを中断しなくていい。玄関にそっと置かれた箱は、「あなたの都合で受け取っていいですよ」という、やさしい合図のようにも見えます。

 考えてみれば、置き配は「信頼」を前提にした仕組みです。ただし、それは堅苦しい信頼ではありません。「まあ、大丈夫でしょう」という、少し肩の力を抜いた信用です。この“ゆるさ”がなければ、どれほど合理的でも社会には定着しません。合理性だけでは人は動かず、気持ちだけでは仕組みは続かない。

 置き配が広がりつつあるのは、戦略としての正しさと、暮らしとしての心地よさが、たまたま同じ方向を向いているからです。段ボール一箱を信じられるかどうか。それは物流の話であると同時に、私たちがどんな社会で生きたいのか、という問いでもあります。

 置き配とは、小さな箱に入った、成熟した社会への試金石なのかもしれません。