アキバのつぶやき
2026.02.01
欲望の直結と、センスの欠如
先日、東京大学の教授が逮捕されたというニュースを見ました。共同研究の見返りに、銀座のクラブや吉原のソープランドで接待を受けていたという、なんとも「ベタ」というか、昭和の汚職事件をタイムスリップさせたような話です。もちろん、法を犯したことの是非は論を俟(ま)ちません。
ただ、私がこのニュースを聞いて真っ先に感じたのは、「あぁ、ここにも『センス』の欠如があるなぁ」という、一種の脱力感に近い感想です。
1. 「知の権威」と「市場の欲望」のミスマッチ今回の事件の本質は、大学が「社会連携講座」という名の下に、学術的な権威を民間資金と交換する仕組みの中にあります。これ自体は、今の国立大学が置かれた「自ら稼げ」というプレッシャーを考えれば、戦略的には真っ当な判断です。
でも、そこに介在する個人のインセンティブ設計が完全にバグっていた。件(くだん)の教授は、自らの専門性という「ストック」を、高級クラブの接待という極めて「フロー」な欲望に直結させてしまった。本来、アカデミアの世界に身を置く人間にとっての最大の報酬は「研究の自由」や「知的なインパクト」であるはずなのに、それをあっさりと「銀座の夜」に換金してしまったところに、インセンティブの強烈なミスマッチがあります。
2. 公私混同という「センス」の問題私が常々申し上げているように、仕事において最も大切なのは「センス」です。スキルは教えられますが、センスは教えられない。今回の佐藤容疑者に欠けていたのは、「公」という舞台で「私」の欲望をどう飼い慣らすか、というバランス感覚としてのセンスです。「みなし公務員」という立場は、社会から「公の信頼」という無形の資産を託されている状態。それを、業者を脅して風俗店を予約させるという「私」の醜悪な振る舞いで浪費する。これはもう、戦略論以前の、人間としての「趣味の悪さ」の問題です。
3. 「見なし」の鎖が届かない場所「自分は公務員ではない、民間から金を引っ張ってきた功労者だ」という過剰な自意識があったのかもしれません。しかし、制度というものは非情です。今回彼を縛り上げたのは、他ならぬ「みなし公務員」という法的な縛りでした。彼は「学問の自由」という特権を享受しながら、その裏側にある「公的な責任」というコストを支払う覚悟がなかった。 おいしいところだけを食おうとして、結局は喉に骨を詰まらせたわけです。
結局のところ、どんなに立派な組織改革をしても、個人の「センス」が欠けていれば、欲望は最短距離で暴走します。東大の藤井総長が「痛恨の極み」と仰るのも分かりますが、本質的な再発防止策は、ガバナンスの強化以上に「センスの悪い人間を重用しない」という、極めて主観的で、かつ最も難しい人事の選審にあるのかもしれません。……と、私のような人間が偉そうに言うのも何ですが、やはり「夜の街」の支払いは自分の財布でするのが、一番ぐっすり眠れるということだけは確かです。
今日も、「アキバのつぶやき」に来てくださって、ありがとうございます。
2026.01.31
パンダ
最近、各地でパンダの返還が続いています。ニュースとしては穏やかですが、よく考えると少し不思議な光景です。動物園の人気者であるパンダが、国際政治の文脈で語られる。
ここに、人間の政治の本質がよく表れているように思います。パンダそのものは、何も語りません。ただ竹を食べ、寝て、愛嬌を振りまくだけです。しかし人間は、その無垢な存在に意味を付与します。友好の象徴、関係改善の証、あるいは距離感のサインとして。パンダは動物である前に、政治的なメッセージになっているのです。
興味深いのは、この関係が極めて非対称である点です。パンダは「貸与」され、返還期限があり、繁殖の成果すら管理されます。そこには、感情や好意ではなく、極めて合理的な国家戦略があります。かわいいからではなく、効くから使われる。ここが重要です。
国家間の関係は、言葉や条約だけでなく、象徴で語られることがあります。象徴は分かりやすく、感情に訴え、コストが低い。パンダ外交は、その点で非常に優れた手段です。相手国の世論に直接作用し、しかも対立を柔らかく包み込む。これは、かなり洗練されたやり方だと思います。
一方で、私たちはついパンダの側に感情移入してしまいます。返還を惜しみ、寂しさを語る。しかし、そこにこそ政治の巧みさがあります。人々が動物に向ける純粋な好意を、国家は静かに借りているのです。
パンダが返っていくという出来事は、関係の変化そのものよりも、「関係はいつでも道具化されうる」という現実を示しています。
人間の政治は、合理的で、冷静で、そして少しだけ無慈悲です。そのことを、パンダは何も知らないまま、今日も檻の中で笹をかじっています。
今日も、「アキバのつぶやき」に来てくださって、ありがとうございます。
2026.01.30
不動産経営に潜む「逸脱の正常化」という静かなリスク
不動産業は、法律と実務のあいだに成立している産業です。宅建業法、借地借家法、各種条例。ルールは細かく、しかも一見すると分かりにくい。
その一方で、現場ではスピードや柔軟な対応が求められます。この構造こそが、「逸脱の正常化」を生みやすい土壌だと思います。たとえば、重要事項説明が形式的になっていないでしょうか。契約書の条文を「いつも通り」で流していないでしょうか。
本来は確認すべき説明や手続きを、「この案件では大丈夫だろう」という判断で省略していないでしょうか。最初は例外のつもりでも、問題が起きなければ、それは次第に「普通のやり方」になります。
不動産業の怖さは、こうした逸脱がすぐには表面化しない点にあります。契約は成立し、取引は完了し、売上も立つ。だから疑われない。しかし、トラブルが起きたとき、過去の「普通」は一気にリスクに変わります。
説明不足、記録の欠如、判断の曖昧さ。その多くは、悪意ではなく、合理性や慣れの結果です。ここで重要なのは、現場を責めることではありません。むしろ、守れないルールを放置してきた組織や業界の構造そのものが問われるべきでしょう。
ルールと実態が乖離すれば、人は実態のほうに従います。不動産業の信頼は、「大きな成功」ではなく、「小さな逸脱を放置しない姿勢」によって支えられています。
経営とは、売上を伸ばすこと以上に、「普通」の基準を意識的に維持し続ける行為なのだと思います。
今日も、「アキバのつぶやき」に来てくださって、ありがとうございます。
2026.01.29
髪の色が語っているのは、思想ではなく立ち位置です
今月27日に衆議院議員選挙の公示が行われ、党首がメディアにあつまり、討論していました。それぞれに党の掲げる公約や主張を繰り広げていましたが、私はその内容よりも、野党女性党首の髪の毛の色が、いずれも茶色であったことが気になりました。
共産党の委員長や、れいわ新選組の共同代表を見ていて、ふと気づくことがあります。髪の色が、いわゆる「政治家らしい黒」ではなく、やや茶色い。この違和感は、実はなかなか示唆的です。
もちろん、そこに思想的な必然性はありません。共産主義だから茶髪、反体制だから染めている、という単純な話ではございません。これは思想ではなく、記号の選択です。
日本政治において、長い間「黒髪・濃紺スーツ・硬い表情」は、信頼と権威の象徴でした。国家を背負う者の記号として、非常に分かりやすかった。しかし今、その記号は少し古びて見え始めています。若い世代にとって黒髪は、安心よりも、既得権や昭和的価値観を連想させる場合があります。
共産党やれいわが担っている役割は、明確です。既存の権力構造への批判であり、中央の論理からこぼれ落ちた声を拾うこと。その立ち位置において、威圧感や「先生感」はむしろマイナスになります。
彼らの主張は、実はかなり強い。分配、国家、経済の再設計。中身は十分にラディカルです。だからこそ、外見まで強くすると、受け手は身構えてしまう。思想を通すために、見た目を柔らかくする。ここには、無意識というより、時代適応があります。
今の政治は、正しさを競う場ではなく、共感を獲得する場です。上から語る指導者より、「隣で同じ怒りを共有する人」が求められている。茶色い髪は、その距離感を縮めるための調整弁です。髪の色は政策を語りません。
しかし、その人が「誰として話したいのか」は雄弁に語ります。黒でも茶でもなく、問われているのは、どの地平に立って言葉を投げるのか。その選択が、今の政治には以前にも増して重くなっているように思います。
今日も、「アキバのつぶやき」に来てくださって、ありがとうございます。
2026.01.27
誰が悪いかではなく、何がそうさせたのかが重要!
東大教授による接待強要が問題になっています。肩書きを見れば、誰もが驚き、失望します。「東大教授がそんなことを」と。でも、ここで問うべきは個人の資質ではなく、なぜそれが可能だったのかという構造です。一昔前、いやもっと前、「ノーパンしゃぶしゃぶ」という接待で現財務省の幹部が摘発され、世間を騒がしたことがありました。
接待とは、本来、対等な関係の中で自然発生的に行われるものです。それが「強要」になった瞬間、すでに接待ではありません。力の非対称性があるところに、暗黙の了解が生まれ、それが常態化すると、誰もおかしいと思わなくなります。
大学、とりわけ名門大学は、知の共同体であると同時に、強い序列を持つ組織です。研究費、評価、人事、推薦。これらが一部の人に集中すると、「断れない空気」が生まれます。ここで問題なのは、誰かが悪いことをした、というより、断れない設計が放置されていたことです。
よくある反応は、「倫理教育が足りない」「意識改革が必要だ」というものです。しかし、35年続く不正が個人の問題ではなかったように、今回もモラルの話で終わらせてはいけません。人は環境に適応します。おかしな環境では、おかしな行動が合理的になってしまう。
優秀であることと、権力を持つことは別物です。ところが組織はしばしば、その二つを同一視します。結果として、能力への敬意が、権力への忖度にすり替わる。その瞬間から、接待は文化になります。
この問題が突きつけているのは、「誰を処分するか」ではありません。権威が集中したときに、それをどう分散させるのか。そこに手をつけない限り、名前を変えて同じことが起きます。人はそんなに悪くありません。 しかし、組織は設計を誤ると、平気で人を黙らせます。今回の件は、そのことを改めて教えてくれています。
今日も、「アキバのつぶやき」に来てくださって、ありがとうございます。
- 1 / 74
- »