アキバのつぶやき

2025.11.23

くいしん坊!万歳、旅の終わりに思うこと

 長く親しんできた「くいしん坊!万才」が、ついに幕を下ろすそうです。 昭和を生きてきた、初老の域に入った私といたしましては、こうして文字にすると、胸にふっと風が吹くような寂しさを感じます。50年もの間、日本中の食卓と旅の風景を届けてくれた番組が、静かにその役割を終えるのですから、感慨深いものがあります。
 
 私がこの番組を見始めたのは、まだ喫茶店の窓際でナポリタンを啜りながら将来に思いを馳せていた昭和の頃です。地方ロケという響きには、どこか遠い土地の匂いがありました。画面の向こうから聞こえる波の音、湯気の立ちのぼる釜、地元の方の照れた笑顔。テレビの前の若い私は、まるで自分も旅をしているような気持ちで見入ったものです。
 
番組が教えてくれたのは、料理の味そのもの以上に、そこに息づく人の暮らしや時間でした。名産品の深い味わいよりも、手を動かすお母さんの背中、漁師のごつごつとした手、古くから続く食堂の暖簾の揺れが、皿の向こうに確かに存在すると気づかされました。「食べることは、誰かの人生をいただくことなのだ」と、私はこの番組から学んだのです。

 長く続くというのは、華やかな記録ではなく、静かな積み重ねです。5分のミニ番組という限られた枠の中に、旅と食と出会いを詰め続ける。その粘り強さと誠実さこそが、視聴者の信頼につながったのだと思います。派手な演出も、過剰な説明もいらない。ただ、目の前の料理と人に向き合う。そんな潔さがこの番組にはありました。


 最終回の日、テレビの前でいつものように見ることは出来ません。終わりというのは、ただ失われるだけではありません。5000皿以上の思い出は、画面の外で私たちの心に生き続けます。

 「ごちそうさま」ではなく「ありがとう」と言うべきなのでしょう。旅は終わっても、食べる喜びと人との出会いは、いつでも私たちの毎日を照らしてくれるからです。これからも小さな食卓を大切にし、ひとつひとつの食の向こうにいる誰かを感じ想いながら、箸を進めていきたいと思います。

2025.11.21

変わらないために、変わり続ける!

 「動的平衡」という言葉があります。生物学者の福岡伸一氏が広めた概念で、生命は常に変化し続けることで、結果として安定を保っているという考え方です。私はこの言葉を、ビジネスや人生の本質を見抜くための強いヒントとして受け止めています。
 
 世の中では、「安定」というと、変化しない状態を良しとする傾向があります。同じ場所に留まり続けることが安心である、と考えがちです。でも、動的平衡の視点から見ると、実はその逆なのです。変わらずに留まるということは、止まることであり、止まるというのは衰退の始まりなのです。


 私たちの体は常に入れ替わっています。皮膚は一ヶ月で全て更新されますし、骨だって数年で新しいものに置き換わります。タンパク質は数日単位です。私たちは「同じ体」で生きていると思っていますが、実は刻々と別の自分に更新され続けています。これが生命の仕組みです。変わり続けることで、同一であり続ける。

 企業に置き換えても同じです。成功した企業がその成功パターンに固執した瞬間に、競争力は落ち始めます。成長を続ける企業は、自らの強みを壊し、常に新しい挑戦を生み出し続けています。過去の勝ちパターンを延命するのではなく、それを越えていく。まさに流れ続けるからこそ、存在し続けられるという構造です。
 
 個人のキャリアも動的平衡そのものです。職場でも、変化を避けて「現状維持」を望む声は多いものです。しかし、現状維持という戦略は存在しません。「変わらずにそこにいよう」と思った瞬間から、動き続けている他者との競争に負け始めます。安定とは、変化を続けた先にしか訪れません。

 「変わらないために変わり続ける。」
動的平衡は、そんな逆説を私たちに教えてくれます。

 流れの中に留まる力こそが、これからの時代で最も必要とされる能力ではないでしょうか。「安定」を求めるなら、むしろ変化を選ぶ。そこに、次の風景が開けてくるのだと思います。

 「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」

2025.11.20

男のアップデート

 昨日は、国際男性デーでした。そんな日が存在することは全く知りませんでした。昭和時代を生きた私は、「男は人前で泣くものではない」と、半ば常識のように聞かされて育ちました。泣くという行為は、どこか「弱さ」のメタファーであり、公共の場における男の立ち振る舞いとしては非推奨とされていたわけです。昭和的な価値観は、ある意味で“直線的”でした。強さとは何か、責任とは何か、男らしさとは何か。その答えは、迷いなく一本道の上に並んでいたのです。


 しかし、時代は静かに、しかし確実に変わりました。令和の空気には、「泣く」ことの意味をアップデートする余白が生まれています。男が涙を見せることが、弱さの表明ではなく、感情の自然な流れとして受け入れられるようになってきました。これを進化と呼ぶか、多様化と呼ぶかは人それぞれですが、確実に“選択肢が増えた”という点が重要です。

 私が興味深く感じるのは、泣くことそのものよりも、「泣く自由」が生まれたということです。自由が生まれると、人はそれを必ずしも行使しません。泣きたい人は泣けばいいし、泣きたくなければ泣かなくていい。ポイントは“自由度の高さ”です。これは昭和にはほとんどなかった概念です。

 人間の行動は、強制よりも選択可能性によって豊かになります。感情の扱いも同様で、怒る・笑う・泣くといった基本動作に対し、どのようにアクセスするかを自分で選べることが、生活の満足度を大きく左右します。こと男性においては、この「泣く」という行為へのアクセシビリティがようやく確保されつつあると、感じるのです。

 最近では、映画やドラマの感動シーンに素直に涙する男性を、周囲があたたかく受け止める場面も増えました。昭和的基準で育った私としては、どこかむずがゆさを覚えつつも、この変化をとても好ましく思っています。泣く・泣かないをめぐって議論する必要すらなく、ただその人らしくあればいい。そういう柔らかい社会に近づいているのだと感じます。

 結局のところ、泣くかどうかは“戦略”ではなく“自然”です。自然体でいられる社会のほうが、私たちの心にはずっと健全です。昭和の私にそっと伝えるなら、「泣いてもいい。泣かなくてもいい。ただ、自分の感情を自分で選べるようになったよ」と言うでしょう。時代の変化とは、こういう小さな自由の積み重ねなのだと思います。

2025.11.17

くじ運

 このところ、くじ運には恵まれていません。大阪城ホールで行われる、永ちゃんのコンサートチケットが、この3年以上外れてばかりです。そして今年も、外れてしまい、つい先日キャンセルの空き抽選があり、一縷の望みで申し込みましたが、ダメでした。

 そんな中、茨城県神栖市の市長選で、両候補が全く同数の票を獲得し、最終的にくじ引きで当選者が決まるという前例の少ない出来事がありました。このニュースに、多くの人が驚きと同時に、どこか腑に落ちない感覚を持ったのではないでしょうか。民主主義の象徴ともいえる選挙が、最後は「運」に委ねられる。その構図は直感的には理解しづらいものです。

 でも私は、この出来事の中に民主主義の本質が凝縮されていると感じます。選挙とは、単に勝者を決める競争ではありません。市民一人ひとりが意思を示すという行為そのものが、民主主義の価値なのです。今回の同数という結果は、まさに市民の意思が完全に拮抗したということです。「どちらでもよい」ではなく、「どちらも同じだけ支持された」。政治的選択として、これほど純粋な形はありません。

 公職選挙法では、同数の場合はくじで当選者を決めると定められています。くじという手段は、一見すると軽く感じられますが、実は極めて中立で、公平です。人の恣意や解釈が一切入り込みません。制度としては極めて合理的と言えます。

 とはいえ、市民の心情として「運で決まった市長」に複雑な思いが生じるのも理解できます。しかし、ここからが本当の勝負です。選ばれた市長には、誰よりも強く、自らの正当性を行動によって証明する責任が生まれました。

 出発点は運であっても、評価は仕事で決まります。営業という仕事も、一面そういうところがあるなぁ~と、強く感じました。

2025.11.16

ポジション

 今回の立花孝志氏の逮捕と、その後に示談を申し入れているという報道を受けて、非常に示唆に富んだ構造変化が起きていると感じています。

これまで立花氏は、強気な言説と対立姿勢を前面に押し出し、「真実相当性」や「正当性」を主張し続けてきました。強い論陣を張ることで、自身の存在意義や支持基盤を確立するという戦略であったように思います。

 しかし、今回の件で示談を申し入れるという動きは、従来の「攻め」の戦略から「ダメージコントロール」へと軸足を移したことを意味しています。
言い換えれば、言論による攻勢では状況を覆せないと判断したということでしょう。政治的・主張的な構造と、刑事法務の現実はまったく別の次元にあります。ここに、強さの裏側にある脆さ、あるいは限界が顔を出していると見えます。

 一方で、この動きが単なる弱腰ではなく、戦略的撤退である可能性も否定できません。示談の申し入れは、刑罰の軽減やイメージの損失を最小限にするための計算された行動とも考えられます。政治家としての影響力やブランド維持のために、最適解を取りに来ているとも受け取れます。

 でも、現時点では、遺族側が示談に応じていないという報道が出ています。交渉の構造としては「提案 — 拒否」のフェーズにあり、まだ出口は見えていません。ここからの行動こそが、立花氏の信頼や評価の行方を決定づけるポイントになるはずです。

 結論としては、今回の示談申し入れは、単なる敗北や弱さの露呈ではなく、戦略的転換点と捉えるべきだと考えます。攻勢から調整へ。強さの形を変えながら、リスクを管理する舵取りとも言えます。この分岐点で、立花氏がどのような姿勢を示すかが、今後の影響力を左右するでしょう。