アキバのつぶやき
2025.11.17
くじ運
このところ、くじ運には恵まれていません。大阪城ホールで行われる、永ちゃんのコンサートチケットが、この3年以上外れてばかりです。そして今年も、外れてしまい、つい先日キャンセルの空き抽選があり、一縷の望みで申し込みましたが、ダメでした。
そんな中、茨城県神栖市の市長選で、両候補が全く同数の票を獲得し、最終的にくじ引きで当選者が決まるという前例の少ない出来事がありました。このニュースに、多くの人が驚きと同時に、どこか腑に落ちない感覚を持ったのではないでしょうか。民主主義の象徴ともいえる選挙が、最後は「運」に委ねられる。その構図は直感的には理解しづらいものです。
公職選挙法では、同数の場合はくじで当選者を決めると定められています。くじという手段は、一見すると軽く感じられますが、実は極めて中立で、公平です。人の恣意や解釈が一切入り込みません。制度としては極めて合理的と言えます。
とはいえ、市民の心情として「運で決まった市長」に複雑な思いが生じるのも理解できます。しかし、ここからが本当の勝負です。選ばれた市長には、誰よりも強く、自らの正当性を行動によって証明する責任が生まれました。
出発点は運であっても、評価は仕事で決まります。営業という仕事も、一面そういうところがあるなぁ~と、強く感じました。
2025.11.16
ポジション
今回の立花孝志氏の逮捕と、その後に示談を申し入れているという報道を受けて、非常に示唆に富んだ構造変化が起きていると感じています。
しかし、今回の件で示談を申し入れるという動きは、従来の「攻め」の戦略から「ダメージコントロール」へと軸足を移したことを意味しています。
一方で、この動きが単なる弱腰ではなく、戦略的撤退である可能性も否定できません。示談の申し入れは、刑罰の軽減やイメージの損失を最小限にするための計算された行動とも考えられます。政治家としての影響力やブランド維持のために、最適解を取りに来ているとも受け取れます。
でも、現時点では、遺族側が示談に応じていないという報道が出ています。交渉の構造としては「提案 — 拒否」のフェーズにあり、まだ出口は見えていません。ここからの行動こそが、立花氏の信頼や評価の行方を決定づけるポイントになるはずです。
結論としては、今回の示談申し入れは、単なる敗北や弱さの露呈ではなく、戦略的転換点と捉えるべきだと考えます。攻勢から調整へ。強さの形を変えながら、リスクを管理する舵取りとも言えます。この分岐点で、立花氏がどのような姿勢を示すかが、今後の影響力を左右するでしょう。
2025.11.15
ブームは再燃するのか?
ブームというのは、たいてい一度きりで終わるもです。ですが、豆乳には「繰り返し戻ってくる力」があります。これは単なる健康志向の波ではなく、日本人の生活リズムに合った“柔らかい必然”のようなものだと思います。
豆乳は、派手な味の主張がございません。だから、流行のスイーツにも、プロテイン飲料にも、カフェラテにも自然に溶け込みます。言い換えれば「主役にも脇役にもなれる」。これは、ビジネスでいえば“共存力”の高さです。
目立たず、しかし長く愛される商品には、この共存力があります。 もう一つ、豆乳の強さは「正しすぎない健康」にあります。人はストイックすぎる健康法には疲れてしまう。青汁のように一度は試しても続かない。それに比べて豆乳は、冷蔵庫に入れておけばなんとなく安心できます。朝のコーヒーに入れるだけで「ちょっと健康的になった気がする」。
その“気がする”という軽やかさが、リピートの正体ではないのでしょうか。 ビジネスでも同じで、「完璧な戦略」よりも「続けられる習慣」が成果を生むといいます。豆乳は、戦略的には控えめだが、習慣としての粘り強さがあります。たんぱく質や美容効果といった“機能”を訴える一方で、味や飲みやすさといった“情緒”の側面を手放しません。そのバランスが心地いいものです。
結局、豆乳ブームが繰り返されるのは、人が「無理なく健康でありたい」という普遍的な欲求を持っているからでしょう。要するに豆乳とは、“頑張らない健康法”の象徴なのです。
2025.11.14
優先座席と譲る心
久しぶりに電車に乗りました。駅構内と車内の風景が変わっていることにすぐに気づいたことがあります。それは、高齢者の数と外国人の乗客が実に多くなったということです。高齢化とインバウンド。どちらも日本社会の現実を映す鏡ですね。
そんな中、帰りの車中で、こころ洗われるほのぼのとした光景を目にすることができました。それは、勤務を終えた初老と見える男性が、乗り込んできたキャリーケースを持った70代らしき女性に、席を譲ろうと座席から少し離れているその女性に、席を離れ声を掛けました。その女性は、「次の駅で降りますので大丈夫です」と、丁寧にお礼を示し辞退されました。
するとその男性は、すかさず横に立っている、幼い子を持つ母親に声をかけ、自分が座っている席をその母親に譲るではないですか!やったー!その好意に従い若い母親は座ってくれました。次の駅に着くまでその母親が子どもに投げかける、何とも言えない愛情湧きあふれる笑顔と接し方が、我が子どもの幼き時代を思い出さしました。しばらくして駅に着くと、その3者は同じ駅に降りたのでした。
優先座席の本質は「席の数」ではなく、「譲り合いの構造」をどうデザインするかにあります。かつての日本では、社会の同質性が高く、暗黙の了解で譲り合いが成立していた。しかし、今は多様化しています。
外国人旅行者は日本式の「気づきのマナー」を知らないし、高齢者の数はかつての倍以上です。そうした状況の中で、数十年前の「固定的な優先座席ルール」で運用するのは、構造的に無理が出てきているのではないでしょうか。
必要なのは、「誰のための席か」ではなく、「状況に応じて機能を変える席」という発想の転換です。時間帯や混雑状況に応じて優先エリアを可変化させるのです。テクノロジーを使えば、そんなことは難しくないでしょう。
たとえば、アプリやLED表示で「いまは高齢者優先ゾーン」などと可視化すればいい。要は、席を増やすよりも「譲る仕組み」をアップデートすること。
2025.11.13
早期退職に見る年齢の壁
大手製造業で50代の早期退職者募集が相次いでいるニュースを見ました。定年を待たずに新たな道を選ぶ人が増える中で、よく聞かれるのが「年齢の壁はあるのか」という問いです。これは転職市場だけでなく、人生のリセットを考える上でも重要なテーマではないでしょうか。
尊敬する楠木建さんなら、「年齢の壁は“事実”としては存在する。しかし“意味”としては存在しない」、というのではないか。制度的にも市場的にも、年齢という数字が影響を持つのは確かです。けれど、それを単なる障害と捉えるか、物語の一部として再定義できるかで、見える景色はまったく違ってくるのです。
50代の転職で問われるのは、「これから何ができるか」ではなく、「これまで何を考え、どう選択してきたか」という経験の“解釈力”です。よく、揶揄されるのが、「かつて○○企業で部長をやっていました。」というのがありますす。
若い人が持つ柔軟性に対し、ミドル世代が持つのは文脈力と関係資産です。企業にとっても、いま必要なのはマニュアル通りの即戦力より、状況を読み解き、人を動かせる人間の厚みです。
結局のところ、年齢の壁とは「自身の人生を物語れないこと」です。自分の仕事の意味を言葉にできないと、どんなに実績があっても価値が伝わりません。言語化力がとわれるのです。逆に、歩んできた道のりを自分の言葉で語れる人は、年齢がそのままブランドになります。 楠木さんならきっとこう締めくくるでしょう。
「転職で問われるのは年齢ではなく、物語の一貫性だ」。
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