アキバのつぶやき

2025.12.08

お米券に感じる、善意の誤謬

 最近、お米券の発行をめぐって、自治体から反発の声が多く上がっているというニュースがありました。一見すると不思議な話です。困っている人にお米を届ける。これほど分かりやすく、これほど善意に満ちた政策はなさそうに見えます。

 それなのに、なぜ現場は戸惑うのでしょうか。ここに、経営の世界でもよく見かける「正しさの罠」が潜んでいるように思います。中央は「良いことをやっている」という確信を持っています。数字上も分かりやすい。〇〇万人に配布、総額いくら。説明もしやすい。しかし、自治体という現場にとっては話がまったく違います。

 配布の事務、対象者の選定、問い合わせ対応、不正防止。これらすべてが自分たちの仕事として降ってくる。しかも、それは本来の仕事に「追加」されるかたちで発生します。
経営の世界で言えば、本社が現場の負荷を想像しないまま新しい施策を打ち出すのと構造は同じです。現場が疲弊するのは、仕事量が増えるからではありません。

 「自分たちの裁量でコントロールできない仕事」が増えるからです。自治体の反発は、政策そのものへの拒否というより、「主導権を奪われること」への違和感なのだと思います。
お米券という仕組みは、支援を「モノ」にひもづける発想です。しかし本来、困りごとは人によって異なります。

 米が必要な人もいれば、光熱費を優先したい人もいる。にもかかわらず選択肢を狭める。これは企業が顧客の都合を考えず、売りたい商品だけを押し付ける姿に似ています。

 善意で設計された制度ほど、現場を苦しめることがあります。大事なのは「何を配るか」ではなく、「誰が、どれだけ自由に動けるか」です。よかれと思って設計した仕組みが、実は自由を奪っていないか。この問いを忘れたとき、政策も経営も静かに壊れていくのだと思います。

2025.12.05

うなぎ

 私は、うなぎは年に一度食べるか食べないかで、あまり好物ではございません。先日、鰻の輸入規制が強まるというニュースを見ました。

 世間の鰻好きにとっては、あぁ、またひとつ、季節の楽しみが遠ざかるのかな。そんな気持ちが胸の奥に、ニョロっと細い線が引かれました。
けれど、よく考えてみると、うなぎは私たちが勝手に“いつでも食べられるもの”と思っていただけで、本当は気まぐれな自然の恵みなのですよね。生き物が相手なのだと思い直しました。

 それでふと、落語の「しわい屋」という演目があるのを知りました。
その噺では、しわい屋の店先で焼かれるうなぎの、あの香ばしいにおいだけを味わって、持参したご飯を食べて帰ろうとする客が出てきます。しわい屋の店主は、そんな客に向かって「におい代を払え」と言ってくる。なんとも小うるさいけれど、どこか憎めない人物です。
 
 でも、においにお金を払うなんて、普通なら誰も考えません。そういう“あり得ない話”が、落語の心地よさでもあります。
とはいえ、しわい屋の店主が「においにも値段がある」と言ったとき、その言葉が妙に頭に残りました。私たちが「ただ」と思って味わっているものにも、実はどこかで誰かが負担をしていることがあるのかもしれません。

 うなぎの輸入規制の話も、そういう感覚に似ています。お店でふんわり漂うタレのにおい。土用の丑の日の風景。それを“当然の夏の楽しみ”として受け取ってきた私たちのほうが、もしかしたら、しわい屋の店先でにおいだけ楽しんでいく客に近かったのではないか。そんな気がしたのです。
 
 もちろん、誰が悪いとか、何がいけないとか、そういう話ではありません。ただ、うなぎが減っているのだとしたら、私たちのほうも少し足元を見る必要があるのでしょう。
 
 来年は、土用の丑の日に「必ずうなぎを」とは思わないでみる。その代わりに、香ばしいにおいを想像しながら、季節の移ろいにそっと耳を澄ませてみる。そういう夏の過ごし方があってもいいのかもしれません。

 しわい屋の店主が言いたかったのは、“においも価値のひとつだ”ということでした。
ならば、私たちもまた、うなぎという生き物の価値を、においより深いところで感じ直す時期に来ているのだと思います。

2025.12.04

奇跡のバックホーム”をめぐる動的平衡

 野球という競技は、静と動が交互に訪れる、不思議な時間の流れを持っています。多くの時間は、ただ静かに進む。投手が静かに呼吸し、打者がその一球を待つ。しかし、わずか数秒のうちに、世界の重力がすべて移動する瞬間があります。

  その凝縮された瞬間に、人は人生の全てを投影してしまいます。2019年9月26日、鳴尾浜。阪神タイガース、横田慎太郎さんの引退試合。センターへ飛んだ打球を、彼は確かに追っていた。視界は完全ではなかったと言われています。脳腫瘍による後遺症で、外野の景色はぼやけ、歪み、揺れて見えたはずだ。その曖昧さを想像するだけでも、胸の奥が痛む。

 それでも、彼は打球に向かって走り出した。力強く、しかし静かに。
その姿は、まるで生命そのものの姿でした。生命は、完全な状態にとどまることができません。
絶えず壊れ、絶えず作り直される。
その連続の中で、私たちは生きているのです。

 福岡伸一が“動的平衡”と呼ぶその原理が、まさにあの一瞬に凝縮していたのです。
 捕球し、そして迷いなくホームへ返したノーバウンド送球。あの一球は、偶然ではないのです。彼が積み重ねた無数の練習、時間、汗、仲間の声援。
 
 それらすべてが、ひとつの軌跡として結晶化したものなのです。 奇跡とは、何も説明不可能な現象のことではない。長い時間の連続が、ある瞬間に形になること。それが私たちの胸を震わせる。

 横田さんは28歳で生涯を閉じました。
 生命は不均等で、理不尽で、脆い。しかしだからこそ、私たちは一つ一つの瞬間を尊く感じるのかもしれません。野球場でのバックホームは、単なるプレーではなかった。それは、私たちがこの世界に生きているという事実そのものでした。

 壊れていく細胞、作り直される細胞。失われていく時間、積み重ねられる時間。希望と絶望、光と影。そのすべてが動的平衡の中で揺らぎながら、ひとりの青年を通して形を得たのです。

 人はいつも、完璧な視界の中で生きているわけではございません。ぼやけ、歪み、揺れている世界を、それでも前へ進むしかないのです。そのとき、私たちを支えるのは、経験でも才能でもないのです。

 生きようとする意志なのです。

 横田慎太郎さんの「奇跡のバックホーム」は、私たちの中で静かに生き続けるのです。それは、生命が壊れ続けながら、それでも決して止まらないという事実の、かけがえのない証明にほかならないのです。
 
 ですから、私たちは少しづつ、少しづつ、前に進もうではないですか! 横田さん全力で臨む姿をありがとう。

 ご冥福をお祈りいたします。

2025.12.01

無人販売所という、信頼のインフラ

 最近、無人販売所をめぐる問題が各地で話題になっています。
設置した野菜が盗まれる、代金箱のお金が抜き取られる。こうした出来事は、一見すると些末なニュースのように見えます。

 しかし、その背景にある本質は「小さな盗難」の範疇を超えています。無人販売所が成り立つ前提は極めてシンプルです。「人は基本的に善意に従って行動する」という信頼です。

 利用する側も、運営する側も、その前提を共有している。その上に、販売所という小さな社会システムが成立します。ところが、ある日突然、その前提が裏切られる。売り物が持ち去られ、代金箱は空になり、跡形もなく失われてしまう。このとき、失われるのは野菜や小銭ではありません。日々積み重ねてきた信頼という見えない資産が、わずかな時間で崩壊してしまうのです。

 そして、その瞬間に心の中に生まれる感情。
れは「怒り」よりもむしろ「むなしさ」ではないでしょうか。対策として、監視カメラの設置という選択肢があります。防犯という観点では合理的で、一定の効果も期待できます。

 しかし、無人販売所の屋根にカメラが取り付けられた瞬間、その場所の意味が変質してしまいます。本来は信頼を前提としていた空間が、「疑い」を前提とする空間へと転換してしまうのです。ここで考えるべき問いがあります。

 私たちは、何を守りたいのか。盗難の防止だけを目的とするなら、カメラの設置は実務的な正解でしょう。しかし、無人販売所が果たしてきた役割を考えると、答えはもう少し複雑になります。無人販売所は、単に野菜を売る場所ではありません。地域の中に共有された倫理と文化が、形として置かれた場所です。利用する人は「誰も見ていないけれど、誰かに見られているような気持ち」で誠実に行動する。外力ではなく、内在的規律が働く仕組みです。
 
 監視カメラは人の行動を制御します。無人販売所は、人の良心を信じる仕組みです。この差は、社会の質に大きな違いを生むと考えます。盗まれる現実があるとしても、それでもなお信頼を前提に置くこと。

 それは、短期的な損得ではなく、長期的な文化形成を選び取る姿勢です。むなしいと感じるということは、まだ信じようとしている証拠です。その感情を出発点にすることで、無人販売所という小さな場所は、ただの販売ではなく、信頼の実験場になり得るのです。

2025.11.30

期限付き消耗品である人間について

作家の嵐山光三郎氏が亡くなりました。「人間は期限つきの消耗品」という言葉を遺された氏の人生を思うと、あらためて、限られた時間をどう生きるかという問いに向き合わざるを得ません。

 私たちは、時間という資源が無限であるかのように錯覚してしまいます。けれど、人間は例外なく、使用期限のある存在です。この事実を直視することが、生きる上での本質的な視座になります。嵐山氏の言葉が重いのは、「死を想定して生を語る」という視点にあります。死から語るからこそ、日常の一瞬一瞬の価値が浮かび上がります。

 もし人生が無限なら、努力も選択も先送りにすればよい。しかし、期限つきだからこそ、今日という日の重みが変わるのです。ビジネスの現場でも同じです。人材も時間も、永遠に続く前提で動き始めた瞬間から、思考は鈍ります。「いつかやる」という言葉ほど非生産的なものはありません。

 成功している人や企業は例外なく、“期限”を意識します。期限があるから、集中できる。期限があるから、優先順位が決まる。期限があるから、動かざるを得ない。この構造を理解した者から成果を上げていきます。嵐山氏が言う「消耗品」という言葉もまた重要です。使うことによって価値を発揮し、使われなければ劣化していく。

 人間の能力も経験も、動かなければ腐ります。「擦り減ることを恐れるより、使い切ることを喜べ」――そんなメッセージが聞こえてくるようです。人生は、消えゆく運命の上に築かれる営みです。期限を知ると、感謝が生まれます。恐れではなく、覚悟が生まれます。そして、日々の選択に迷いが減ります。

 嵐山光三郎氏の冥福を祈りながら、今日あらためて思います。どう使うかが、生きる質を決めるのです。消耗品である自分を、どれだけ使い切れるか。それこそが、私たちに残された問いではないでしょうか。