アキバのつぶやき

2025.12.15

あなたは「通」ですか、それとも「推し」ですか?

 むかしは、「○○通」という言い方がありました。映画通、酒通、蕎麦通。その道にくわしい人のことを、ちょっと敬意をこめて、そう呼んでいた。「通」という字には、どこか細い道をすいすい歩いていく感じがあります。普通の人が気づかないところまで知っている。裏道も、抜け道も、ちゃんとわかっている。だから、その人の話は信用できる、という空気がありました。

 でも、最近はどうでしょう。「通ですか?」と聞くよりも、「推してますか?」と聞く場面のほうが多い気がします。この「推す」という言葉、よくできています。くわしいかどうかは、あまり問題にしていない。体系的に説明できなくてもいい。「なんか好きなんです」「気になっちゃって」という、それだけで成立する。

 これは、言葉が軽くなったのではなく、人の立ち位置が変わったのだと。「通」は、どこか少し高いところから見ている言葉でした。対象を理解し、評価し、語る側。一方で「推す」は、対象のすぐそばに立っています。完成度よりも、距離の近さ。正しさよりも、関係性。

 情報が少なかった時代は、知っていること自体が価値でした。でも今は、知識はすぐに手に入る。だからこそ、「どう感じているか」「どれだけ時間を使っているか」が、その人らしさになる。推し活というのは、熱狂ではなく、日常に近い行為かもしれません。 成長を見守ったり、失敗に一緒にがっかりしたりする。それは鑑賞というより、応援であり支援です。

 「通」は、完成品を味わう人。「推す」は、途中経過を一緒に生きる人。どちらが上という話ではありません。ただ、今の時代は、「好きです」と言える人の声が、少し前よりも大事にされている。それは、悪くない変化だと思います。詳しくなくてもいい。うまく説明できなくてもいい。それでも、何かを大切に思っている。「推す」という言葉には、そんな人の居場所が、ちゃんと用意されている気がするのですが、皆様はどう感じられますか?

2025.12.14

置き配という制度について

 玄関先に荷物が置かれている。置き配という仕組みは、今や珍しいものではなくなりました。にもかかわらず、どこかまだ「仮の制度」のような、落ち着かなさも残っています。盗まれたらどうするのか、安全なのか。そうした不安の声は根強くあります。

 ビジネスの面から考えますと、置き配はきわめて戦略的な選択です。再配達という非効率を減らし、ドライバーの負担を軽くし、社会全体のコストを下げる。その代わりに、ごく小さな不確実性を引き受ける。これは「完璧な安全」を追わず、「全体最適」を取りにいく、明確なトレードオフです。100点を目指さないからこそ、80点が持続する。置き配は、その好例でしょう。

一方で、別のところから目を向けると、置き配の本質は、効率よりも「生活のリズム」にあると、とらまえることもできます。チャイムに縛られず、在宅を気にせず、暮らしを中断しなくていい。玄関にそっと置かれた箱は、「あなたの都合で受け取っていいですよ」という、やさしい合図のようにも見えます。

 考えてみれば、置き配は「信頼」を前提にした仕組みです。ただし、それは堅苦しい信頼ではありません。「まあ、大丈夫でしょう」という、少し肩の力を抜いた信用です。この“ゆるさ”がなければ、どれほど合理的でも社会には定着しません。合理性だけでは人は動かず、気持ちだけでは仕組みは続かない。

 置き配が広がりつつあるのは、戦略としての正しさと、暮らしとしての心地よさが、たまたま同じ方向を向いているからです。段ボール一箱を信じられるかどうか。それは物流の話であると同時に、私たちがどんな社会で生きたいのか、という問いでもあります。

 置き配とは、小さな箱に入った、成熟した社会への試金石なのかもしれません。

2025.12.13

米ではなく熊になった

 今年の漢字が「熊」に決まったというニュースを見て、なるほどなあと思いました。山に住む大きな動物が、いまや都市近郊にも堂々と出没する時代です。単なる生態系の話ではなく、人間側の「生活の設計」と「時間の使い方」が揺れている象徴のようにも感じます。

 一方で、今年は「米(こめ)」が来るのではないかと予想していた方も多かったでしょう。お米券の議論、米価の乱高下、各地の不作といったニュースが続いたからです。しかし結果は「熊」。ここには、事象の“量”ではなく、人々の心に残った“質”が反映されています。

 「感情のヒット率」の高さが勝負を決めた、というところでしょう。
「米」は生活の基盤として確かに大切です。そこに文句のつけようはありません。ただ、お米の話は概して「構造的な課題」の領域に入ります。気象変動、農政、需給調整など、論点が多く、じっくり腰を据えなければ語れません。人々の心に“瞬間的に”刺さるというよりは、長期的に効いてくるテーマです。

 対して「熊」は、一匹の目撃情報が一気に全国の話題になります。「また出たのか」「どうしてこんな場所に」という驚きが、まさに“物語性”を伴って届きます。人間の生活圏と自然の境界が曖昧になっていることを、象徴的に示している出来事です。ヒットコンテンツの条件は「意外性と納得感の同時成立」だとよく聞きますが、「熊」にはそれがありました。「そりゃそうだよな」と「まさかね」が一緒に訪れるのです。

 今年の漢字が「米」ではなく「熊」だったという結果は、世の中の受け止め方における“重心の移動”を映し出しているように感じます。「日々の暮らしに関わる地続きの不安」と「突発性のショック」。この二つの間で、私たちの注意の配分は常に揺れているのです。

 来年の漢字がどうなるかは誰にもわかりません。ただ、一つだけ言えるのは、こうして毎年選ばれる一文字が、社会の“思考の座標軸”を静かに教えてくれているということです。「熊」が選ばれた今年は、人と自然、人と社会の境界線をもう一度引き直す年だったのかもしれません。

2025.12.12

震える

 昔の中国では、「蜃(しん)」という海の生き物が怪異をもたらすと信じられていたそうです。蜃は海中に棲み、気を吐いて空に幻の城を描く。その現象は、いまも「蜃気楼」という言葉として残っています。

 科学が未発達だった時代、人々は「見えない現象」を「見える姿」に置き換えて理解しようとしました。地震の「震」という漢字を眺めてみると、そこにも同じ発想を見ることができます。

 上に「雨」、下に「辰」。天の異変と、地のうごめきが一つの文字に封じ込められている。地下で何かがたまり、限界に達したとき、世界はふるえる。彼らはそれを「蜃」や「龍」の動きとして表現しました。

 いま私たちは、プレートの歪みや断層のずれという言葉で地震を説明します。しかし、構図そのものは昔とほとんど変わっていません。見えない場所で力が蓄積され、ある瞬間に解放される。そのイメージを、かつては生き物の姿に託し、いまはグラフや数式に託しているだけのことです。

 漢字というのは、単なる記号ではなく、古代の「世界の理解のしかた」が化石のように凝縮されたものだと思います。

  

2025.12.11

残価という希望的観測に注意

 最近、「残価設定型住宅ローン」という耳慣れない言葉をよく目にするようになりました。自動車ではすでに一般的になりつつある仕組みを、住宅にも応用しようという発想です。

 月々の返済額を抑えながら、少し背伸びした住まいを手に入れやすくする。聞こえはとても魅力的です。しかし、住宅とクルマの決定的な違いは「市場の前提条件」にあります。

 クルマは時間の経過とともに価値が下がることを前提にした商品設計です。一方、日本の住宅市場は、建物価値がほぼ確実に下落するという歴史的な経験則の上に成り立っています。つまり、残価設定型という仕組みは、日本の住宅市場においては「合理的な金融商品」というよりも「希望的観測を組み込んだ販売装置」に近い性格を持っているように見えます。

 さらに、日本は人口減少と空き家増加という構造変化の真っただ中にあります。需要が縮小する市場で将来価値を前提にするというのは、「坂道を登りながら追い風を期待する」ような行為に似ています。理論としては美しいのですが、足元の地面があまりにも現実的です。

 金融商品の設計には、しばしば「優しさ」が組み込まれます。月々の支払いを軽くする、選択肢を広げる、不安をやわらかく包み込む。しかしその優しさは、多くの場合、時間軸の後ろ側に負担を押し出すことによって成立しています。残価設定型は、まさにその典型例です。

 住宅ローンは本来、家を買うためのお金の話ではなく、「どのくらいのリスクなら引き受けられるか」という人生設計の話です。月々の支払いが軽くなるという事実は、家計にとって魅力的です。しかし、本当に問うべきは「軽くなった分の重さが、どこへ移動したのか」という点でしょう。

 残価とは、未来に対する静かな賭けです。その賭けに勝つかどうかは、市場でも金融機関でもなく、たいていは運によって決まります。だからこそ、安く買える仕組みほど、慎重に見つめる価値があるのだと思います。