アキバのつぶやき

2025.12.23

冬至

 昨日は冬至でした。一年でいちばん昼が短い日です。 
冬至というと、「これから日が長くなる」とよく言われます。たしかに暦の上ではそうなのですが、体感としては、まだまだ寒さはこれからが本番です。

 明るくなる感じもしないし、気分が急に前向きになるわけでもありません。 でも、冬至には不思議な安心感があります。「いちばん底の日」だと、はっきり決まっているからです。

 ここから先は、少しずつですが、必ず昼は長くなっていく。その事実が、静かに背中を支えてくれます。かぼちゃを食べたり、ゆず湯に入ったりするのも、無理に元気を出すためではなく、「ちゃんと今日を越えましたよ」という合図のようなものなのかもしれません。

 理由を細かく知らなくても、毎年同じことをするだけで、季節と足並みがそろいます。冬至は、何かを始める日というより、「折り返し地点に来ました」と確認する日と思います。派手な節季ではありませんが、だからこそ、生活の中にすっとなじむ。昨日は特別なことはせず、早く暗くなる空を見て、「ああ、今日は冬至か!」と思うだけでした。それで十分です。

 寒さの底に立っていると知るだけで、人は案外、落ち着いていられるものです。

2025.12.22

フラット35の限度額増額をどう考える!

 フラット35の限度額が1.5倍になるというニュースは、不動産業界・住宅業界に身を置く人間にとっては、正直なところ「助かる話」です。成約のボトルネックが一つ外れるからです。買いたい人が増えるのではなく、「買える人」に見える人が増える。この違いは小さいようで、本質的です。

 ここ数年、住宅価格はじわじわと、しかし確実に上がっています。建築費、人件費、資材価格。どれも下がる理由がありません。その一方で、実需層の所得が劇的に伸びているわけでもない。結果として現場では、「物件はあるが、通らない」「欲しいが、届かない」という宙づり状態が常態化しています。

 そこに限度額1.5倍です。これは需要喚起というより、需給のズレを金融で埋めにいく施策と見るべきでしょう。業界的には、成約率が上がり、価格調整をせずに済む。短期的には歓迎すべき話です。ただし、ここに構造的な危うさもあります。

 不動産業界は、価格が上がるときほど「売れる理由」を制度のせいにしがちです。金利が低いから、制度が拡充されたから、という説明は、お客様にとって分かりやすい。しかしそれは、物件そのものの価値ではなく、借りられる力に依存した売り方でもあります。

 金融の下支えがあるうちは、市場は静かに回ります。しかし、もし金利環境が変わったらどうなるのか。限度額が広がった分だけ、出口の選択肢は狭くなる。中古市場での流動性、買い替え耐性、そして担保価値。これらは、後になって効いてきます。

 不動産業界にとって本当に必要なのは、「いくらまで借りられますか」という話よりも、「この物件は、環境が変わっても持ち続けられますか」という問いを提示することではないでしょうか。制度に背中を押されて売るのは簡単です。しかし、信頼を積み上げるのは、いつも逆風のときです。

 フラット35の限度額1.5倍は、業界にとっての追い風であると同時に、足腰を試す風でもあります。その風にどう向き合うかで、不動産業者の真価が問われているように思います。

2025.12.21

口は禍の元だけですませてはいけない!

「核を持つべきだ」という発言は、あまりに強い言葉なので、つい是非論に引きずられます。しかし、戦略論として重要なのは賛成か反対かではなく、「なぜその言葉が出てきたのか」を考えることが、大切です。 

 核武装論は、究極の手段を語っているようで、実は“手詰まり感”の表明でもあります。通常戦力、同盟関係、外交努力、それらが十分に機能しているという実感があれば、核という選択肢はそもそも俎上に載りにくい。核の話題が出るということ自体、既存の安全保障のストーリーが説得力を失っている兆候なのだと思うのです。

 戦略とは、選択肢を増やすことではなく、選ばなくて済む状況をつくることでもあるのです。核は選択肢の中で最も重く、最も取り返しのつかないカードです。それを「持つか持たないか」で議論している時点で、戦略の議論としてはかなり拙いとしか言えません。

 本当に問うべきなのは、「日本はどのような前提条件のもとで安全を設計してきたのか」、そして「その前提は今も有効なのか」という一点です。核を語ること自体が目的化した瞬間、戦略は感情論に変わります。強い言葉ほど、思考停止を誘います。

 だからこそ、こういう発言に接したときほど、いちばん静かな問いを立てる必要があると思うのです。

2025.12.20

毎年の定番!

 クリスマスが近づくと、テレビの編成表が、そっと同じ顔を見せてくる。

 ああ、今年も来たな、と思う。その顔はだいたい『ホーム・アローン』だ。
この映画は、観るための映画というより、「確認するための映画」なのかもしれない。ケビンがひとりで家に残されて、あの音楽が流れると、「あ、今はもう年末だ」と身体のほうが先に理解する。頭で考える前に、季節が合図を出してくる感じ。

 子どものころは、いたずらの痛快さだけを観ていた。ペンキ缶がぶつかって、泥棒がひっくり返る。そのたびに、笑った。でも大人になって観ると、笑いの背景がちょっと違って見える。
 
 あれだけ大人数で移動して、ひとり足りないことに気づかない。これはコメディだけど、集団というものの、案外あてにならなさも描いている。それでも、この映画はやさしい。
 
 最後には、ちゃんと家族が戻ってくる。家は壊れかけても、関係は壊れない。そこが、毎年繰り返しても耐えられる理由なんだと思う。毎年同じ映画が流れるというのは、変わらないようでいて、実は少しずつ意味が変わっている。観ているこちらが変わるからだ。だから『ホーム・アローン』は、毎年「初見」でもあり、「再会」でもある。
 
 クリスマスは特別なことをしなくてもやってくる。でも、こういう決まりごとがあると、人はちゃんと立ち止まれる。今年もここまで来たね、と自分に言える。ケビンは今年も一人で家を守る。そして私たちは、それを横目に見ながら、静かに一年をたたむ準備をする。

 たぶん、それでいい。

2025.12.19

年収の壁は撤廃できないのだろうか?

 年収の壁が178万円まで引き上げられることで、自民党と国民民主党の税制調査会長が合意した、というニュースが流れました。数字だけを見ると、また少しややこしい話が増えたな、という印象を持つ人も多いかもしれません。

 しかし、こういう制度変更は、たいてい「理屈」よりも「現場」で効いてきます。私はいつも、そこがいちばん大事だと思っています。年収の壁というのは、制度としてはとても人工的なものです。ある金額を一円でも超えると、手取りが減る。働いた分だけ報われない、という奇妙な段差が存在してきました。
 
 その結果、多くの人が「これ以上は働かないほうが合理的だ」という判断をしてきたわけです。これは怠けでもズルでもなく、きわめてまっとうな意思決定です。
今回、その壁を178万円まで引き上げるという合意は、少なくとも「働きたい人が、働くことをためらわなくてよい」方向に一歩動いた、という意味では評価できると思います。

 重要なのは、これが減税かどうかという議論ではありません。人の行動がどう変わるか、です。
企業経営の世界でも同じですが、人はインセンティブに極めて素直に反応します。制度設計が「やらない方が得」になっていれば、人はやりません。逆に、「やった方が自然に得」になっていれば、わざわざ号令をかけなくても動きます。

 年収の壁とは、まさにその典型でした。
ただし、ここで安心してはいけません。壁を動かすたびに、また別の場所に新しい壁ができる。制度をパッチワークのように直していく限り、この問題は形を変えて残り続けます。

 本来問われるべきは、「なぜ壁が必要なのか」という設計思想そのものです。
178万円という数字は、ゴールではなく、通過点です。大切なのは、この合意をきっかけに、「人が自然に働ける制度とは何か」を考える議論が始まるかどうか。そこにこそ、このニュースの本当の価値があるのだと思います。いろいろな壁が世の中には存在します。壁は出来るだけ無いほうがいいとおもうのですが、いかがでしょうか。