アキバのつぶやき
2026年01月
2026.01.31
パンダ
最近、各地でパンダの返還が続いています。ニュースとしては穏やかですが、よく考えると少し不思議な光景です。動物園の人気者であるパンダが、国際政治の文脈で語られる。
ここに、人間の政治の本質がよく表れているように思います。パンダそのものは、何も語りません。ただ竹を食べ、寝て、愛嬌を振りまくだけです。しかし人間は、その無垢な存在に意味を付与します。友好の象徴、関係改善の証、あるいは距離感のサインとして。パンダは動物である前に、政治的なメッセージになっているのです。
興味深いのは、この関係が極めて非対称である点です。パンダは「貸与」され、返還期限があり、繁殖の成果すら管理されます。そこには、感情や好意ではなく、極めて合理的な国家戦略があります。かわいいからではなく、効くから使われる。ここが重要です。
国家間の関係は、言葉や条約だけでなく、象徴で語られることがあります。象徴は分かりやすく、感情に訴え、コストが低い。パンダ外交は、その点で非常に優れた手段です。相手国の世論に直接作用し、しかも対立を柔らかく包み込む。これは、かなり洗練されたやり方だと思います。
一方で、私たちはついパンダの側に感情移入してしまいます。返還を惜しみ、寂しさを語る。しかし、そこにこそ政治の巧みさがあります。人々が動物に向ける純粋な好意を、国家は静かに借りているのです。
パンダが返っていくという出来事は、関係の変化そのものよりも、「関係はいつでも道具化されうる」という現実を示しています。
人間の政治は、合理的で、冷静で、そして少しだけ無慈悲です。そのことを、パンダは何も知らないまま、今日も檻の中で笹をかじっています。
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2026.01.30
不動産経営に潜む「逸脱の正常化」という静かなリスク
不動産業は、法律と実務のあいだに成立している産業です。宅建業法、借地借家法、各種条例。ルールは細かく、しかも一見すると分かりにくい。
その一方で、現場ではスピードや柔軟な対応が求められます。この構造こそが、「逸脱の正常化」を生みやすい土壌だと思います。たとえば、重要事項説明が形式的になっていないでしょうか。契約書の条文を「いつも通り」で流していないでしょうか。
本来は確認すべき説明や手続きを、「この案件では大丈夫だろう」という判断で省略していないでしょうか。最初は例外のつもりでも、問題が起きなければ、それは次第に「普通のやり方」になります。
不動産業の怖さは、こうした逸脱がすぐには表面化しない点にあります。契約は成立し、取引は完了し、売上も立つ。だから疑われない。しかし、トラブルが起きたとき、過去の「普通」は一気にリスクに変わります。
説明不足、記録の欠如、判断の曖昧さ。その多くは、悪意ではなく、合理性や慣れの結果です。ここで重要なのは、現場を責めることではありません。むしろ、守れないルールを放置してきた組織や業界の構造そのものが問われるべきでしょう。
ルールと実態が乖離すれば、人は実態のほうに従います。不動産業の信頼は、「大きな成功」ではなく、「小さな逸脱を放置しない姿勢」によって支えられています。
経営とは、売上を伸ばすこと以上に、「普通」の基準を意識的に維持し続ける行為なのだと思います。
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2026.01.29
髪の色が語っているのは、思想ではなく立ち位置です
今月27日に衆議院議員選挙の公示が行われ、党首がメディアにあつまり、討論していました。それぞれに党の掲げる公約や主張を繰り広げていましたが、私はその内容よりも、野党女性党首の髪の毛の色が、いずれも茶色であったことが気になりました。
共産党の委員長や、れいわ新選組の共同代表を見ていて、ふと気づくことがあります。髪の色が、いわゆる「政治家らしい黒」ではなく、やや茶色い。この違和感は、実はなかなか示唆的です。
もちろん、そこに思想的な必然性はありません。共産主義だから茶髪、反体制だから染めている、という単純な話ではございません。これは思想ではなく、記号の選択です。
日本政治において、長い間「黒髪・濃紺スーツ・硬い表情」は、信頼と権威の象徴でした。国家を背負う者の記号として、非常に分かりやすかった。しかし今、その記号は少し古びて見え始めています。若い世代にとって黒髪は、安心よりも、既得権や昭和的価値観を連想させる場合があります。
共産党やれいわが担っている役割は、明確です。既存の権力構造への批判であり、中央の論理からこぼれ落ちた声を拾うこと。その立ち位置において、威圧感や「先生感」はむしろマイナスになります。
彼らの主張は、実はかなり強い。分配、国家、経済の再設計。中身は十分にラディカルです。だからこそ、外見まで強くすると、受け手は身構えてしまう。思想を通すために、見た目を柔らかくする。ここには、無意識というより、時代適応があります。
今の政治は、正しさを競う場ではなく、共感を獲得する場です。上から語る指導者より、「隣で同じ怒りを共有する人」が求められている。茶色い髪は、その距離感を縮めるための調整弁です。髪の色は政策を語りません。
しかし、その人が「誰として話したいのか」は雄弁に語ります。黒でも茶でもなく、問われているのは、どの地平に立って言葉を投げるのか。その選択が、今の政治には以前にも増して重くなっているように思います。
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2026.01.27
誰が悪いかではなく、何がそうさせたのかが重要!
東大教授による接待強要が問題になっています。肩書きを見れば、誰もが驚き、失望します。「東大教授がそんなことを」と。でも、ここで問うべきは個人の資質ではなく、なぜそれが可能だったのかという構造です。一昔前、いやもっと前、「ノーパンしゃぶしゃぶ」という接待で現財務省の幹部が摘発され、世間を騒がしたことがありました。
接待とは、本来、対等な関係の中で自然発生的に行われるものです。それが「強要」になった瞬間、すでに接待ではありません。力の非対称性があるところに、暗黙の了解が生まれ、それが常態化すると、誰もおかしいと思わなくなります。
大学、とりわけ名門大学は、知の共同体であると同時に、強い序列を持つ組織です。研究費、評価、人事、推薦。これらが一部の人に集中すると、「断れない空気」が生まれます。ここで問題なのは、誰かが悪いことをした、というより、断れない設計が放置されていたことです。
よくある反応は、「倫理教育が足りない」「意識改革が必要だ」というものです。しかし、35年続く不正が個人の問題ではなかったように、今回もモラルの話で終わらせてはいけません。人は環境に適応します。おかしな環境では、おかしな行動が合理的になってしまう。
優秀であることと、権力を持つことは別物です。ところが組織はしばしば、その二つを同一視します。結果として、能力への敬意が、権力への忖度にすり替わる。その瞬間から、接待は文化になります。
この問題が突きつけているのは、「誰を処分するか」ではありません。権威が集中したときに、それをどう分散させるのか。そこに手をつけない限り、名前を変えて同じことが起きます。人はそんなに悪くありません。 しかし、組織は設計を誤ると、平気で人を黙らせます。今回の件は、そのことを改めて教えてくれています。
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2026.01.26
消費税がゼロという公約について
自民党が掲げた「消費税ゼロを加速的に」という公約は、聞いた瞬間の分かりやすさという点では、非常に強い言葉です。物価高に苦しむ生活者にとって、「税がなくなる」というメッセージは、理屈より先に感情に届きます。その意味で、この公約は“よくできた言葉”です。
ただし、ここで一度立ち止まって考える必要があります。消費税ゼロは政策なのか、それとも気分への対応なのか、という点です。消費税は、日本の社会保障を支える基幹税です。それをゼロにするということは、家計で言えば固定費を一時的に帳簿から消すようなものです。
短期的には楽になりますが、その先をどうするのかという設計がなければ、問題は先送りされるだけです。今回の公約で特徴的なのは、「ゼロ」以上に「加速的に」という表現です。これは政策用語ではありません。
実行時期、対象範囲、代替財源といった具体論が曖昧なまま、スピード感だけが強調されています。つまり、これは設計図というより、ムードを伝える言葉です。なぜ今、これが出てきたのでしょうか。
その背景を考えると、日本経済の構造的な問題に正面から向き合う難しさが見えてきます。賃金は上がらず、将来不安は消えない。こうした問題に答えるには時間がかかります。一方、消費税ゼロは即答でき、反発も少ない。
選挙においては、極めて使いやすいメッセージです。でも、即効性のある策ほど、戦略にはなりにくいのが世の常です。大切なのは、消費税をどうするかではなく、その先にどんな国をつくりたいのか、という物語です。
その物語が語られない限り、減税は支持を集めても、未来はつくれません。消費税ゼロが悪いのではありません。問われているのは、その覚悟と設計です。 そこを語らずに掲げられた公約は、政策というより、その場をしのぐための言葉に見えてしまいます。
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2026.01.25
ひふみんから考える、「負け」というビジネスの作法
先日亡くなられた将棋棋士・加藤一二三さん、いわゆる「ひふみん」の歩みを振り返ると、「負け」というものの捉え方について、ビジネスにも通じる重要な示唆が見えてきます。
将棋は勝ち負けが極端に明確な世界です。対局が終われば、必ずどちらかが負ける。そして、「負けました」と発言し、一礼し投了となります。しかもその事実は、記録として半永久的に残ります。
ひふみんはその世界で、勝利と同じくらい、いやそれ以上に多くの敗北を経験してきました。それでも彼は、負けを人生の汚点のようには扱いませんでした。
一方ビジネスの現場では、負けを過剰に恐れる傾向があります。失注、撤退、失敗プロジェクト。これらは往々にして「なかったこと」にされ、語られなくなります。しかし、これは戦略的に見ると非常にもったいない。
それは、負けというものは、もっとも情報量の多いデータだからです。ひふみんの特徴は、負けを感情から切り離していた点にあります。負けた将棋を淡々と振り返り、「ここが悪かった」と局面単位で語る。そこに自己否定はありません。
これはビジネスでも同じです。負けを人格や能力の問題にしてしまうと、学習は止まります。必要なのは、意思決定と結果を切り分ける冷静さです。また、ひふみんは勝ちに執着しすぎなかった棋士でもあります。常に「この局面での最善手」を考え続けた。その結果として勝つこともあり、負けることもある。
この姿勢は、短期的成果に振り回されがちなビジネスにおいて、非常に示唆的です。負けとは、終わりではありません。次の一手を考えるために、盤面が更新されたという事実にすぎないのです。
ひふみんの人生が教えてくれるのは、勝ち続ける方法ではなく、負けを使い続ける知性です。ビジネスにおいても、長く成果を出し続ける人や企業ほど、負けを隠さず、誇張せず、静かに活用しているのだと思います。
加藤一二三先生のご冥福をお祈りいたします。
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2026.01.24
不正が、35年も続く元は何か?
生命保険は、ほぼ皆様加入されていると思います。私も加入しておりますが、子どもの教育費の負担によって保険料の支払いがままならくなりそうだったので、ある年で払い止めをしました。今どのような保証が残っているのか、記憶にないのが現状です。
さて、この度プルデンシャル生命で、35年にわたって不適切な募集行為が行われていたという報道がありました。数字だけを見ると、思わず言葉を失います。35年ですよ。
ほぼ一世代です。ここで大事なのは、「けしからん」「倫理観がない」と憤ることではありません。もちろん不正は不正です。ただ言えば、35年も続いたものは、個人のモラルではなく、組織の設計の問題だということです。
生命保険営業は、成果が数字で可視化されやすい。一方で、プロセスは見えにくい。この「見える成果」と「見えない過程」の非対称性が、長期的に何を生むのか。答えはシンプルで、結果が正義になるということです。
優秀な営業ほど評価され、数字を出す人ほど称賛される。そうした構造の中で、「多少の無理」は黙認され、「多少」だったものが、やがて常態になります。気づいたときには、それが文化になっている。35年という時間は、その完成に十分すぎるほど長い。
これは保険業界に限りません。不動産でも、金融でも、そして多くの営業組織でも起き得る話です。「ルールは守っています」と言いながら、実際に守られているのは、数字だけというケースは珍しくありません。
不正を止めるには、監査を強化すればいい、罰則を重くすればいい、という話ではありません。本質は、人間性に尽きるのです。何を評価し、何を評価しないか。そこを変えない限り、名前を変えて同じことが繰り返されます。
35年続いた不正が教えているのは、人はそんなに悪くないが、組織は放っておくと平気で間違う人間をつくる、という厳しい現実です。 そしてその責任は、現場よりも、設計した側にあるのではないでしょうか。だからこそ、 組織はどこまでも、正しい人間をまず作るということが第一義の経営理念に掲げなくてはならないと、改めて痛感します。
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2026.01.23
失敗をどう扱うか?
昨日は、久しぶりに含蓄のあるお言葉を頂戴でき、貴重な時間を体験することが出来ました。現役時代は、大企業の要職につかれ、偉大なるカリスマ経営者から直々に、仕事の進め方、人生の生き方を教えてくださったとの事。このお客様との対談によって、私が求めている方向性が正しいという勇気を頂きました。感謝しかございません。
そんな中、不動産営業の世界にいると、「失敗をどう乗り越えるか」という問いに、何度も向き合うことになります。契約直前での白紙解約、金融機関の否決、重要事項説明後のキャンセル、価格交渉の決裂。他社での媒介契約。どれも現場では日常茶飯事です。
ただ、この問い自体が、少し構造的にズレているように思います。失敗は「乗り越える対象」ではなく、「前提条件」だからです。不動産取引は、複雑な利害関係と不確実性の集合体です。売主、買主、金融機関、法規制、市場環境、感情、家族関係。すべてが絡み合う中で、失敗ゼロを前提にした営業設計そのものが非現実的です。
むしろ、失敗しない営業プロセスのほうが危険です。学習が止まるからです。重要なのは、失敗を感情処理しないことです。「自分の説明力が足りなかった」「営業力が弱いからだ」と人格評価に変換した瞬間、失敗は学習素材ではなくなります。ただの自己否定データになってしまいます。
必要なのは、構造化です。
・なぜこの取引は止まったのか
・情報の非対称性はどこにあったのか
・判断のボトルネックは誰にあったのか
・プロセス設計のどこに歪みがあったのか
これを冷静に分解することが、次の受注率を上げる唯一の方法です。不動産営業の本質は、「説得」ではなく「設計」です。顧客の感情、金融条件、法的制約、時間軸を含めた意思決定構造をどう設計するか。ここが甘いと、どれだけ説明がうまくても、どこかで取引は崩れます。
そして実は、最も危険なのは「成功体験」です。一度うまくいった型は、再現性があると錯覚しやすい。しかし市場も顧客も条件も毎回違います。成功体験は思考停止を生み、失敗は思考を生みます。
戦略的に価値が高いのは、明らかに後者です。だから、失敗を乗り越えようとしなくていいのです。失敗は排除するものではなく、営業プロセスを進化させるためのデータです。
感情から切り離し、構造として分析し、次の設計に反映させる。それだけで十分です。不動産営業とは、成果を積み上げる仕事であると同時に、失敗の処理能力を積み上げる仕事でもあります。失敗を減らす人が強いのではなく、失敗を「学習変換」できる人が、長く現場に残るのです。
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2026.01.22
試験とAIについて
最近、AIが各種試験で高い正解率を出しているという話題を耳にします。これを不動産資格試験、たとえば宅地建物取引士や管理業務主任者に置き換えて考えると、話はぐっと分かりやすくなります。
不動産資格試験は、よくできた試験です。条文、判例、数値、手続き。どれも「正解が一つに定まる」ように設計されています。あらかじめ範囲が決められ、出題形式も安定している。これは公平性を担保するためには不可欠ですが、同時にAIが最も力を発揮しやすい条件でもあります。AIが高得点を取るのは、何も不思議なことではありません。
不動産資格試験が測っているのは、「知識を正確に呼び出し、条件に当てはめる力」です。これは実務に必要な能力の一部ではありますが、実務そのものではありません。むしろ、実務では「どの論点を問題にすべきか」を見極める力のほうが重要です。
現場の不動産取引は、教科書通りに進みません。境界が曖昧、当事者の理解が食い違う、感情が先行する。こうした状況で求められるのは、条文知識よりも、判断の順序と説明の設計です。ここには正解が一つしかない、ということはほとんどありません。資格試験の点数が高い人が、必ずしも優秀な不動産実務家になるわけではない理由はここにあります。
試験は「ルールが固定された世界」での能力を測ります。一方、実務は「ルールはあるが、状況は毎回違う世界」です。AIが強いのは前者であり、後者ではまだ限定的です。むしろ注目すべきは、AIが簡単に正解できる試験を、人間が「専門性の証明」として使い続けている点です。
資格が無意味だという話ではありません。最低限の共通言語として、資格は今後も必要です。ただし、それ以上の価値を過剰に期待すると、現場とのズレが生じます。不動産資格試験は、入口のフィルターです。通過点であって、ゴールではありません。
AIが高得点を取る時代には、その位置づけがより明確になります。知識は前提条件であり、差がつくのはその後です。AIに勝つことを目標に勉強する必要はありません。むしろ、AIが簡単に解ける問題を、人間はさっさと通過し、その先でしか発揮できない価値判断、説明、信頼の構築に時間を使うべきです。
不動産の仕事は、最終的に「人が決める」仕事です。資格試験の正解率が高いことと、現場で信頼されることは、必ずしも一致しない。その当たり前の事実を、AIは静かに教えてくれています。
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2026.01.19
大寒に思うこと
この度の衆議院解散選挙を見ていて、まず感じるのは「唐突さ」ではありません。むしろ、「準備され尽くした唐突さ」です。解散はサプライズのように見えて、その実、関係者の間では十分に織り込み済みのイベントです。問題は、誰のために準備されていたのか、という点です。
政治の解散には、常に二つの時間軸があります。一つは、有権者が感じる時間。もう一つは、政権が管理する時間です。この二つは、ほとんど一致しません。有権者が「まだ判断材料が揃っていない」と感じるときほど、政権側は「いまが最適」と判断します。今回の解散も、まさに後者の論理で動いています。戦略的に見れば、解散とは「比較の土俵を固定する」行為です。物価、外交、少子化、財政。どれも長期戦が必要なテーマですが、選挙という短期決戦に持ち込むことで、評価軸を単純化できる。
これは経営で言えば、構造的な問題が表面化する前に、決算期を前倒しするようなものです。一方で、野党側は常に不利です。選挙とは、準備が整った側が勝つゲームだからです。理念の正しさや批判の鋭さよりも、「すでに配置されている人・金・組織」がものを言う。これは是非の問題ではなく、ルールの問題です。ルールを変えない限り、結果も大きくは変わりません。
今回の解散選挙で問われているのは、「信任」ではありません。本当に問われているのは、「この不安定な状況を、当面誰に預けるか」という暫定判断です。選挙結果が何かを解決するわけではございません。せいぜい、時間を買うか、時間を失うか。その選択に過ぎないとおもいます。
興味深いのは、有権者の温度感です。怒りも期待も、どちらも以前ほど強くない感じがします。これは政治への無関心というより、「大きく変わらないことを前提にした合理的諦観」と見るべきでしょう。変化を期待しない人ほど、日常は冷静です。
経営でも同じですが、最大のリスクは「変わらないこと」ではありません。「変わらないまま、環境だけが変わること」です。解散選挙は、そのズレを一時的に見えなくする装置として機能します。しかし、装置は永続しません。
この度の衆議院解散選挙は、未来を決める選挙ではありません。過去の延長線を、もう少しだけ続けるかどうかを決める選挙だと感じます。その現実を理解した上で投票するかどうか。そこに、有権者側の成熟が問われています。選挙は終わります。
しかし、構造は残りつづけます。そのことを、私たちは何度も経験してきたはずだと、肝に銘じて投票に行こう。
今日も、「アキバのつぶやき」に来てくださって、ありがとうございます。
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