アキバのつぶやき

2025年12月

2025.12.18

表記統一について

 ヘボン式ローマ字の表記を統一しよう、という話を聞くと、私はいつも「便利って、どこまでが便利なんだろう」と考えます。ヘボン式というのは、日本語をアルファベットで書くときに、できるだけ“発音どおり”に見せようとした仕組みです。
 
 だから「し」はshiだし、「つ」はtsuになります。英語を知っている人には、たしかに親切です。問題は「ん」です。「しんぶん」がshimbunになったり、「さんぽ」がsampoになったりする。これは間違いではなく、実際の発音に近づけた結果です。でも、ここで人は少し立ち止まります。「同じ『ん』なのに、どうしてnとmが混ざるの?」と。

 表記統一をしよう、という声は、たぶんこの“立ち止まり”を減らしたいのだと思います。ルールは一つのほうが覚えやすい。コンピュータにもやさしい。役所の書類も混乱しない。たしかに、そのとおりです。でも、言葉って、もともとそんなにきれいに揃っていないものです。

 人の口は、生きものですから、次に来る音に合わせて、ちょっとサボったり、ちょっと近道をしたりする。「ん」がmに近づくのも、がんばらないための知恵です。ヘボン式は、その“がんばらなさ”を、そのまま写そうとした、とも言えます。

 統一する、というのは、乱れを正すことのようでいて、実は、こぼれ落ちる情報もあります。発音の気配とか、口の動きとか、「あ、こう言ってるんだな」という身体感覚です。

 全部をnにしてしまえば、整いますが、少し平らにもなります。たぶん大事なのは、「どちらが正しいか」ではなく、「何のために使うか」です。パスポートやデータ管理では統一が強い。

 言葉の面白さや、人間っぽさを味わうなら、揺れも悪くない。ヘボン式の「ん」がnとmに分かれるのは、優柔不断だからではありません。人の口が、ちゃんと人であることを、忘れないようにしているだけなんだと思います。そう考えると、ちょっと愛おしくなってきませんか。

2025.12.15

あなたは「通」ですか、それとも「推し」ですか?

 むかしは、「○○通」という言い方がありました。映画通、酒通、蕎麦通。その道にくわしい人のことを、ちょっと敬意をこめて、そう呼んでいた。「通」という字には、どこか細い道をすいすい歩いていく感じがあります。普通の人が気づかないところまで知っている。裏道も、抜け道も、ちゃんとわかっている。だから、その人の話は信用できる、という空気がありました。

 でも、最近はどうでしょう。「通ですか?」と聞くよりも、「推してますか?」と聞く場面のほうが多い気がします。この「推す」という言葉、よくできています。くわしいかどうかは、あまり問題にしていない。体系的に説明できなくてもいい。「なんか好きなんです」「気になっちゃって」という、それだけで成立する。

 これは、言葉が軽くなったのではなく、人の立ち位置が変わったのだと。「通」は、どこか少し高いところから見ている言葉でした。対象を理解し、評価し、語る側。一方で「推す」は、対象のすぐそばに立っています。完成度よりも、距離の近さ。正しさよりも、関係性。

 情報が少なかった時代は、知っていること自体が価値でした。でも今は、知識はすぐに手に入る。だからこそ、「どう感じているか」「どれだけ時間を使っているか」が、その人らしさになる。推し活というのは、熱狂ではなく、日常に近い行為かもしれません。 成長を見守ったり、失敗に一緒にがっかりしたりする。それは鑑賞というより、応援であり支援です。

 「通」は、完成品を味わう人。「推す」は、途中経過を一緒に生きる人。どちらが上という話ではありません。ただ、今の時代は、「好きです」と言える人の声が、少し前よりも大事にされている。それは、悪くない変化だと思います。詳しくなくてもいい。うまく説明できなくてもいい。それでも、何かを大切に思っている。「推す」という言葉には、そんな人の居場所が、ちゃんと用意されている気がするのですが、皆様はどう感じられますか?

2025.12.14

置き配という制度について

 玄関先に荷物が置かれている。置き配という仕組みは、今や珍しいものではなくなりました。にもかかわらず、どこかまだ「仮の制度」のような、落ち着かなさも残っています。盗まれたらどうするのか、安全なのか。そうした不安の声は根強くあります。

 ビジネスの面から考えますと、置き配はきわめて戦略的な選択です。再配達という非効率を減らし、ドライバーの負担を軽くし、社会全体のコストを下げる。その代わりに、ごく小さな不確実性を引き受ける。これは「完璧な安全」を追わず、「全体最適」を取りにいく、明確なトレードオフです。100点を目指さないからこそ、80点が持続する。置き配は、その好例でしょう。

一方で、別のところから目を向けると、置き配の本質は、効率よりも「生活のリズム」にあると、とらまえることもできます。チャイムに縛られず、在宅を気にせず、暮らしを中断しなくていい。玄関にそっと置かれた箱は、「あなたの都合で受け取っていいですよ」という、やさしい合図のようにも見えます。

 考えてみれば、置き配は「信頼」を前提にした仕組みです。ただし、それは堅苦しい信頼ではありません。「まあ、大丈夫でしょう」という、少し肩の力を抜いた信用です。この“ゆるさ”がなければ、どれほど合理的でも社会には定着しません。合理性だけでは人は動かず、気持ちだけでは仕組みは続かない。

 置き配が広がりつつあるのは、戦略としての正しさと、暮らしとしての心地よさが、たまたま同じ方向を向いているからです。段ボール一箱を信じられるかどうか。それは物流の話であると同時に、私たちがどんな社会で生きたいのか、という問いでもあります。

 置き配とは、小さな箱に入った、成熟した社会への試金石なのかもしれません。

2025.12.13

米ではなく熊になった

 今年の漢字が「熊」に決まったというニュースを見て、なるほどなあと思いました。山に住む大きな動物が、いまや都市近郊にも堂々と出没する時代です。単なる生態系の話ではなく、人間側の「生活の設計」と「時間の使い方」が揺れている象徴のようにも感じます。

 一方で、今年は「米(こめ)」が来るのではないかと予想していた方も多かったでしょう。お米券の議論、米価の乱高下、各地の不作といったニュースが続いたからです。しかし結果は「熊」。ここには、事象の“量”ではなく、人々の心に残った“質”が反映されています。

 「感情のヒット率」の高さが勝負を決めた、というところでしょう。
「米」は生活の基盤として確かに大切です。そこに文句のつけようはありません。ただ、お米の話は概して「構造的な課題」の領域に入ります。気象変動、農政、需給調整など、論点が多く、じっくり腰を据えなければ語れません。人々の心に“瞬間的に”刺さるというよりは、長期的に効いてくるテーマです。

 対して「熊」は、一匹の目撃情報が一気に全国の話題になります。「また出たのか」「どうしてこんな場所に」という驚きが、まさに“物語性”を伴って届きます。人間の生活圏と自然の境界が曖昧になっていることを、象徴的に示している出来事です。ヒットコンテンツの条件は「意外性と納得感の同時成立」だとよく聞きますが、「熊」にはそれがありました。「そりゃそうだよな」と「まさかね」が一緒に訪れるのです。

 今年の漢字が「米」ではなく「熊」だったという結果は、世の中の受け止め方における“重心の移動”を映し出しているように感じます。「日々の暮らしに関わる地続きの不安」と「突発性のショック」。この二つの間で、私たちの注意の配分は常に揺れているのです。

 来年の漢字がどうなるかは誰にもわかりません。ただ、一つだけ言えるのは、こうして毎年選ばれる一文字が、社会の“思考の座標軸”を静かに教えてくれているということです。「熊」が選ばれた今年は、人と自然、人と社会の境界線をもう一度引き直す年だったのかもしれません。

2025.12.12

震える

 昔の中国では、「蜃(しん)」という海の生き物が怪異をもたらすと信じられていたそうです。蜃は海中に棲み、気を吐いて空に幻の城を描く。その現象は、いまも「蜃気楼」という言葉として残っています。

 科学が未発達だった時代、人々は「見えない現象」を「見える姿」に置き換えて理解しようとしました。地震の「震」という漢字を眺めてみると、そこにも同じ発想を見ることができます。

 上に「雨」、下に「辰」。天の異変と、地のうごめきが一つの文字に封じ込められている。地下で何かがたまり、限界に達したとき、世界はふるえる。彼らはそれを「蜃」や「龍」の動きとして表現しました。

 いま私たちは、プレートの歪みや断層のずれという言葉で地震を説明します。しかし、構図そのものは昔とほとんど変わっていません。見えない場所で力が蓄積され、ある瞬間に解放される。そのイメージを、かつては生き物の姿に託し、いまはグラフや数式に託しているだけのことです。

 漢字というのは、単なる記号ではなく、古代の「世界の理解のしかた」が化石のように凝縮されたものだと思います。

  

2025.12.11

残価という希望的観測に注意

 最近、「残価設定型住宅ローン」という耳慣れない言葉をよく目にするようになりました。自動車ではすでに一般的になりつつある仕組みを、住宅にも応用しようという発想です。

 月々の返済額を抑えながら、少し背伸びした住まいを手に入れやすくする。聞こえはとても魅力的です。しかし、住宅とクルマの決定的な違いは「市場の前提条件」にあります。

 クルマは時間の経過とともに価値が下がることを前提にした商品設計です。一方、日本の住宅市場は、建物価値がほぼ確実に下落するという歴史的な経験則の上に成り立っています。つまり、残価設定型という仕組みは、日本の住宅市場においては「合理的な金融商品」というよりも「希望的観測を組み込んだ販売装置」に近い性格を持っているように見えます。

 さらに、日本は人口減少と空き家増加という構造変化の真っただ中にあります。需要が縮小する市場で将来価値を前提にするというのは、「坂道を登りながら追い風を期待する」ような行為に似ています。理論としては美しいのですが、足元の地面があまりにも現実的です。

 金融商品の設計には、しばしば「優しさ」が組み込まれます。月々の支払いを軽くする、選択肢を広げる、不安をやわらかく包み込む。しかしその優しさは、多くの場合、時間軸の後ろ側に負担を押し出すことによって成立しています。残価設定型は、まさにその典型例です。

 住宅ローンは本来、家を買うためのお金の話ではなく、「どのくらいのリスクなら引き受けられるか」という人生設計の話です。月々の支払いが軽くなるという事実は、家計にとって魅力的です。しかし、本当に問うべきは「軽くなった分の重さが、どこへ移動したのか」という点でしょう。

 残価とは、未来に対する静かな賭けです。その賭けに勝つかどうかは、市場でも金融機関でもなく、たいていは運によって決まります。だからこそ、安く買える仕組みほど、慎重に見つめる価値があるのだと思います。

2025.12.09

キャバクラと政治資金

 政治資金でキャバクラ代を支払っていた、という話を聞いて、まず思うのは「それは違法かどうか」ではなく、「それは美しいかどうか」という問いでした。制度はグレーでも、感覚としてアウトなものは、だいたいアウトなのです。

 政治資金とは、本来「公のために集められたお金」です。つまり、それは「私」のお金ではなく、「私たち」のお金です。そのお金を、私的な享楽に近い場所で使う。これは会計の問題というより、想像力の問題だと思います。自分が使った一万円の向こう側に、顔も名前も知らない誰かの努力や期待がある、という想像力です。

 尊敬している経営学者の楠木さんなら、おそらくこう言うでしょう。経営でも政治でも、本当に怖いのは不正そのものではなく、「鈍感さ」だと。悪意がある人はまだ救いがあります。自覚があるからです。

 厄介なのは、「これくらい普通だろう」と思ってしまう無自覚です。倫理が壊れる瞬間は、たいてい大きな決断ではなく、小さな「まあいいか」の積み重ねで起きます。
キャバクラが悪いわけではありません。仕事帰りに一杯飲んで、人に癒される時間もまた、人間らしさの一部です。

 ただし、それを「誰のお金でやっているのか」という一点で、世界はまったく違って見えます。
公と私の境目は、法律の条文よりも先に、「ここは越えたら格好悪い」という内側の線で決まります。その線が引けなくなった組織や人は、いずれ制度の隙間ではなく、信頼の崖から落ちていきます。

 政治家に求められているのは、清廉潔白な聖人性ではありません。ただひとつ、「これは自腹で払おう」と自然に思える感覚です。その感覚が残っている限り、民主主義は、まだギリギリ大丈夫だと思うのです。

  忘年会シーズンです。自腹なら欠席、会社の経費なら参加するという社員もいると聞きます。その心の色にその会社の未来がうっすらと浮かび上がります。

2025.12.08

お米券に感じる、善意の誤謬

 最近、お米券の発行をめぐって、自治体から反発の声が多く上がっているというニュースがありました。一見すると不思議な話です。困っている人にお米を届ける。これほど分かりやすく、これほど善意に満ちた政策はなさそうに見えます。

 それなのに、なぜ現場は戸惑うのでしょうか。ここに、経営の世界でもよく見かける「正しさの罠」が潜んでいるように思います。中央は「良いことをやっている」という確信を持っています。数字上も分かりやすい。〇〇万人に配布、総額いくら。説明もしやすい。しかし、自治体という現場にとっては話がまったく違います。

 配布の事務、対象者の選定、問い合わせ対応、不正防止。これらすべてが自分たちの仕事として降ってくる。しかも、それは本来の仕事に「追加」されるかたちで発生します。
経営の世界で言えば、本社が現場の負荷を想像しないまま新しい施策を打ち出すのと構造は同じです。現場が疲弊するのは、仕事量が増えるからではありません。

 「自分たちの裁量でコントロールできない仕事」が増えるからです。自治体の反発は、政策そのものへの拒否というより、「主導権を奪われること」への違和感なのだと思います。
お米券という仕組みは、支援を「モノ」にひもづける発想です。しかし本来、困りごとは人によって異なります。

 米が必要な人もいれば、光熱費を優先したい人もいる。にもかかわらず選択肢を狭める。これは企業が顧客の都合を考えず、売りたい商品だけを押し付ける姿に似ています。

 善意で設計された制度ほど、現場を苦しめることがあります。大事なのは「何を配るか」ではなく、「誰が、どれだけ自由に動けるか」です。よかれと思って設計した仕組みが、実は自由を奪っていないか。この問いを忘れたとき、政策も経営も静かに壊れていくのだと思います。

2025.12.05

うなぎ

 私は、うなぎは年に一度食べるか食べないかで、あまり好物ではございません。先日、鰻の輸入規制が強まるというニュースを見ました。

 世間の鰻好きにとっては、あぁ、またひとつ、季節の楽しみが遠ざかるのかな。そんな気持ちが胸の奥に、ニョロっと細い線が引かれました。
けれど、よく考えてみると、うなぎは私たちが勝手に“いつでも食べられるもの”と思っていただけで、本当は気まぐれな自然の恵みなのですよね。生き物が相手なのだと思い直しました。

 それでふと、落語の「しわい屋」という演目があるのを知りました。
その噺では、しわい屋の店先で焼かれるうなぎの、あの香ばしいにおいだけを味わって、持参したご飯を食べて帰ろうとする客が出てきます。しわい屋の店主は、そんな客に向かって「におい代を払え」と言ってくる。なんとも小うるさいけれど、どこか憎めない人物です。
 
 でも、においにお金を払うなんて、普通なら誰も考えません。そういう“あり得ない話”が、落語の心地よさでもあります。
とはいえ、しわい屋の店主が「においにも値段がある」と言ったとき、その言葉が妙に頭に残りました。私たちが「ただ」と思って味わっているものにも、実はどこかで誰かが負担をしていることがあるのかもしれません。

 うなぎの輸入規制の話も、そういう感覚に似ています。お店でふんわり漂うタレのにおい。土用の丑の日の風景。それを“当然の夏の楽しみ”として受け取ってきた私たちのほうが、もしかしたら、しわい屋の店先でにおいだけ楽しんでいく客に近かったのではないか。そんな気がしたのです。
 
 もちろん、誰が悪いとか、何がいけないとか、そういう話ではありません。ただ、うなぎが減っているのだとしたら、私たちのほうも少し足元を見る必要があるのでしょう。
 
 来年は、土用の丑の日に「必ずうなぎを」とは思わないでみる。その代わりに、香ばしいにおいを想像しながら、季節の移ろいにそっと耳を澄ませてみる。そういう夏の過ごし方があってもいいのかもしれません。

 しわい屋の店主が言いたかったのは、“においも価値のひとつだ”ということでした。
ならば、私たちもまた、うなぎという生き物の価値を、においより深いところで感じ直す時期に来ているのだと思います。

2025.12.04

奇跡のバックホーム”をめぐる動的平衡

 野球という競技は、静と動が交互に訪れる、不思議な時間の流れを持っています。多くの時間は、ただ静かに進む。投手が静かに呼吸し、打者がその一球を待つ。しかし、わずか数秒のうちに、世界の重力がすべて移動する瞬間があります。

  その凝縮された瞬間に、人は人生の全てを投影してしまいます。2019年9月26日、鳴尾浜。阪神タイガース、横田慎太郎さんの引退試合。センターへ飛んだ打球を、彼は確かに追っていた。視界は完全ではなかったと言われています。脳腫瘍による後遺症で、外野の景色はぼやけ、歪み、揺れて見えたはずだ。その曖昧さを想像するだけでも、胸の奥が痛む。

 それでも、彼は打球に向かって走り出した。力強く、しかし静かに。
その姿は、まるで生命そのものの姿でした。生命は、完全な状態にとどまることができません。
絶えず壊れ、絶えず作り直される。
その連続の中で、私たちは生きているのです。

 福岡伸一が“動的平衡”と呼ぶその原理が、まさにあの一瞬に凝縮していたのです。
 捕球し、そして迷いなくホームへ返したノーバウンド送球。あの一球は、偶然ではないのです。彼が積み重ねた無数の練習、時間、汗、仲間の声援。
 
 それらすべてが、ひとつの軌跡として結晶化したものなのです。 奇跡とは、何も説明不可能な現象のことではない。長い時間の連続が、ある瞬間に形になること。それが私たちの胸を震わせる。

 横田さんは28歳で生涯を閉じました。
 生命は不均等で、理不尽で、脆い。しかしだからこそ、私たちは一つ一つの瞬間を尊く感じるのかもしれません。野球場でのバックホームは、単なるプレーではなかった。それは、私たちがこの世界に生きているという事実そのものでした。

 壊れていく細胞、作り直される細胞。失われていく時間、積み重ねられる時間。希望と絶望、光と影。そのすべてが動的平衡の中で揺らぎながら、ひとりの青年を通して形を得たのです。

 人はいつも、完璧な視界の中で生きているわけではございません。ぼやけ、歪み、揺れている世界を、それでも前へ進むしかないのです。そのとき、私たちを支えるのは、経験でも才能でもないのです。

 生きようとする意志なのです。

 横田慎太郎さんの「奇跡のバックホーム」は、私たちの中で静かに生き続けるのです。それは、生命が壊れ続けながら、それでも決して止まらないという事実の、かけがえのない証明にほかならないのです。
 
 ですから、私たちは少しづつ、少しづつ、前に進もうではないですか! 横田さん全力で臨む姿をありがとう。

 ご冥福をお祈りいたします。