アキバのつぶやき
2025.11.20
男のアップデート
昨日は、国際男性デーでした。そんな日が存在することは全く知りませんでした。昭和時代を生きた私は、「男は人前で泣くものではない」と、半ば常識のように聞かされて育ちました。泣くという行為は、どこか「弱さ」のメタファーであり、公共の場における男の立ち振る舞いとしては非推奨とされていたわけです。昭和的な価値観は、ある意味で“直線的”でした。強さとは何か、責任とは何か、男らしさとは何か。その答えは、迷いなく一本道の上に並んでいたのです。
しかし、時代は静かに、しかし確実に変わりました。令和の空気には、「泣く」ことの意味をアップデートする余白が生まれています。男が涙を見せることが、弱さの表明ではなく、感情の自然な流れとして受け入れられるようになってきました。これを進化と呼ぶか、多様化と呼ぶかは人それぞれですが、確実に“選択肢が増えた”という点が重要です。
私が興味深く感じるのは、泣くことそのものよりも、「泣く自由」が生まれたということです。自由が生まれると、人はそれを必ずしも行使しません。泣きたい人は泣けばいいし、泣きたくなければ泣かなくていい。ポイントは“自由度の高さ”です。これは昭和にはほとんどなかった概念です。
人間の行動は、強制よりも選択可能性によって豊かになります。感情の扱いも同様で、怒る・笑う・泣くといった基本動作に対し、どのようにアクセスするかを自分で選べることが、生活の満足度を大きく左右します。こと男性においては、この「泣く」という行為へのアクセシビリティがようやく確保されつつあると、感じるのです。
最近では、映画やドラマの感動シーンに素直に涙する男性を、周囲があたたかく受け止める場面も増えました。昭和的基準で育った私としては、どこかむずがゆさを覚えつつも、この変化をとても好ましく思っています。泣く・泣かないをめぐって議論する必要すらなく、ただその人らしくあればいい。そういう柔らかい社会に近づいているのだと感じます。
結局のところ、泣くかどうかは“戦略”ではなく“自然”です。自然体でいられる社会のほうが、私たちの心にはずっと健全です。昭和の私にそっと伝えるなら、「泣いてもいい。泣かなくてもいい。ただ、自分の感情を自分で選べるようになったよ」と言うでしょう。時代の変化とは、こういう小さな自由の積み重ねなのだと思います。