アキバのつぶやき

2025.11.11

螺旋の先にあるもの

 DNAの二重らせん構造を発見したワトソン博士が亡くなりました。

 同じ時期、名古屋で26年前の殺人事件がDNA鑑定によって解決に向かいました。
この二つの出来事は、一見無関係に見えて、一本の「らせん」でつながっています。

 ワトソン博士の発見は、単なる科学技術ではなく、「人間をどう理解するか」という視点の転換でした。
DNAは生物の設計図であると同時に、「個の証拠」でもあります。それによって、司法の世界では「状況」よりも「構造」が重視されるようになりました。科学が真実のあり方を変えたのです。

 名古屋の事件では、26年という時間が経っても、DNAが沈黙の中で事実を語り続けていました。記憶や証言は変わっても、分子は嘘をつかない。

 科学は時間の流れを敵にせず、むしろ味方にする力を持ちます。過去を再び問い直すことができる。それは人間の知恵の進化でもあります。
ただし、科学の進歩は光と影を伴います。

 DNA鑑定の精度が高まるほど、データの扱い方や倫理の問題も複雑になります。ワトソン博士自身も、晩年に発言を巡って批判を受けました。
科学の発見は中立でも、それを使う人間は不完全です。

 だからこそ、私たちは技術そのものではなく、その背後にある「判断の質」を問う必要があります。DNAのらせんは、科学と人間社会の関係そのものを象徴しているようです。
 
 倫理と進歩、発見と誤用が絡み合いながら、私たちは少しずつ前に進んでいく。科学は万能ではありませんが、その螺旋のどこかに、人間の希望と責任の接点がある。ワトソン博士の死と事件の解決は、まさにそのことを静かに教えてくれたように思います。

コメント

コメントフォーム