アキバのつぶやき

2025.11.10

当たり前に感謝するという知的な営み

 「当たり前のことに感謝しましょう」という言葉は、道徳的な響きが強い。でも、私はこれを「知的な構造の問題」として捉えてみたい。感謝とは、単なる“いい人ぶり”ではなく、人間の知覚構造を再起動させる行為ではないでしょうか。


 人間は比較するの動物です。何かと比較しなければその価値が分からないように、人間の脳に埋め込まれています。変化がなければ、ものごとを認識できないようになっています。

 朝、電車が時間通りに来ても何も感じないのに、遅れた瞬間に文句を言いたくなる。つまり「当たり前」とは、比較が失われた状態のことです。感謝できないのではなく、比較の基準が麻痺しているのです。

 ここでひとつ発想を転換してみます。もし、今日あなたが起き上がれなかったら? もし、スマホが突然使えなくなったら? もし、大切な誰かがもういなかったら?

 そう考えた瞬間に、当たり前が“ありがたい”に変わります。これは感情論ではなく、構造の再定義といえます。感謝を習慣にするには、“設計”が必要です。たとえば、毎晩一つだけ「今日ありがたかったこと」を書き出してみる。これは気分の問題ではなく、意識に上げる仕組みです。感謝とは筋トレのようなもの。鍛えなければ鈍るし、習慣にすれば反射的に出てくるもの。
 
 感謝できる人は、長期的にみると強い。なぜなら、怒りや不満は短期的な反応ですが、感謝は長期的な視座を育ててくれます。仕事でも人生でも、“うまくいっている人ほど謙虚”なのは、彼らが「ありがたみの構造」を理解しているからです。

 「ありがたい」とは「有ることが難しい」と書きます。つまり、存在そのものが奇跡であるという認識です。これを意識的に取り戻すことが、人生の質を高める最もシンプルで知的な戦略ではないかと思うのでした。

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