アキバのつぶやき
2025.09.15
マラソンと人生
マラソンという競技の本質は何か。42.195キロという距離をいかに自分のリズムで刻み、淡々と積み上げていくことにあるとします。ところが、先日の世界陸上東京大会の男子マラソンは、その本質をひっくり返すような、前代未聞の展開を見せました。
タンザニアのシンブ選手とドイツのペトロス選手が、同じタイム「2時間9分48秒」でゴールイン。公式には同時、しかし写真判定でわずか0.03秒差。胴体が先にゴールラインを通過していたのはシンブ選手でした。ここに金と銀の明暗が分かれたわけです。
42.195キロを走り抜いて、最後の最後で0.03秒。これはいったい何を意味しているのでしょうか。
普通に考えれば、マラソンは数秒、いや数十秒の差がつくのが当たり前。なのに、まるで100メートル走のゴールシーンをスローで見ているような、肉眼では判別できないドラマが生まれました。そこに、スポーツが持つ「偶然性の必然」が垣間見えます。
普通に考えれば、マラソンは数秒、いや数十秒の差がつくのが当たり前。なのに、まるで100メートル走のゴールシーンをスローで見ているような、肉眼では判別できないドラマが生まれました。そこに、スポーツが持つ「偶然性の必然」が垣間見えます。
私が面白いと思ったのは、勝者シンブ選手のコメントです。「勝ったと気づかなかった。(結果を見て)僕が勝ったんだと思ったよ」。彼自身が勝利を認識できないほどの接戦。ここにスポーツの深い真理があります。つまり、本人にとっての勝利体験と、外から見える勝敗の決定は、必ずしも一致しないのです。
考えてみれば、人生も仕事も同じです。長い道のりやプロセスを積み上げて歩んできて、最後の最後に思わぬスプリント勝負がやってくる。しかも、そこで勝ったのか負けたのかは、自分ではよく分からないことが多い。
結果は後から、第三者によって告げられます。私の仕事の場合は、折衝していた相続人さんの空き家が更地になっているとか、販売中ののぼりや看板が設置されていることになります。
今回のマラソンは、そうした仕事の現実と、人生の縮図のように見えました。
結果は後から、第三者によって告げられます。私の仕事の場合は、折衝していた相続人さんの空き家が更地になっているとか、販売中ののぼりや看板が設置されていることになります。
今回のマラソンは、そうした仕事の現実と、人生の縮図のように見えました。
マラソンで写真判定極めて異例だからこそ、私たちはそこに「問い」を感じざるを得ません。
42.195キロの走行を積み重ねの果てに訪れる0.03秒の差。その僅差を決めるのは、体力なのか、精神力なのか、あるいは運なのか。答えは一つではないでしょう。ただ一つ確かなのは、選手たちが最後まで諦めずに挑み続けたこと。それこそが、このレースを「記憶に残る瞬間」へと変えたのだと思います。
人生も思い通りにならないことが多い中でも、わずかな一歩でもいい、前に前に進めていくことに生きる意義があるのではないでしょうか。
42.195キロの走行を積み重ねの果てに訪れる0.03秒の差。その僅差を決めるのは、体力なのか、精神力なのか、あるいは運なのか。答えは一つではないでしょう。ただ一つ確かなのは、選手たちが最後まで諦めずに挑み続けたこと。それこそが、このレースを「記憶に残る瞬間」へと変えたのだと思います。
人生も思い通りにならないことが多い中でも、わずかな一歩でもいい、前に前に進めていくことに生きる意義があるのではないでしょうか。