アキバのつぶやき

2025.08.09

自己診断の誤謬

 私たちは、とかく「自分の実力」を過大にも過小にも見積もる生き物です。過大であれば傲慢になり、過小であれば臆病になります。どちらも成長を止める毒です。そこで、なぜこの二極的な自己評価を、私たちはくだすことになるのでしょう。それは、幼少の育った環境ではないかというのかが、私の仮説です。

 私は、実力というものは「自分が思っているより、外の世界での評価が正しい」と思っています。つまり、どれだけ自己分析をしても、最終的には他者の目が現実を突きつけます。試験の点数、作品の評価、商売の売上、事務的処理の巧拙など、これらは無情なまでに数字や結果で示されます。人間は主観的な存在ですから、自分を冷静に評価するのに並外れた客観性が必要です。だからこそ、現実世界に身を置き、その反応を受け止めることが必要なのです。
 若いころの私は、自分の仕事は他社を凌いだ、卓越したスキルを要していると思っていました。ところが、ある上司に、一蹴されました。「そんな手法では、得先に歓迎されない」と。屈辱と暴力をうけました。ですが、その一言と受けた行動で、私は自分はまだ、営業の第一線に君臨する存在であるという力を、持っていないと悟りました。人はこうして、外からの冷たい風にあたって初めて、自分の背丈を知るのではないでしょうか。
 また、実力は「過去の最高到達点」ではなく、「今の平均値」で測るべきです。かつての栄光にすがる人は多いものです。(歪んだ、他力による実績)によるかもしれないけれど、実力とは常に現在形で問われます。今日できなければ、それはあなたの実力ではない。残酷ですが、それが事実です。
 
 さらに、自分の実力を知る方法の一つは「限界を試す」ことです。今の自分に少し背伸びを強いる課題に挑み、その達成度を見るのです。自分ができる安全な範囲でしか動かない人は、自分の限界もまた真の実力も知ることは出来ません。多少の失敗を恐れず、泥をかぶる覚悟が必要です。

 結局、自分の実力を知るとは、自意識から離れ幻想を剥ぎ取る作業です。自己陶酔の世界から己を引き離し、甘い慰めも、過去の幻想的輝きも、全て脇に置き、今という現実の結果と評価に向き合う。その勇気と決断を持つ人だけが、次の一歩を踏み出せるのではないでしょうか。


 私しは、アルコールが好きで、仕事を終えて家で酩酊しているときは、おそらく自己陶酔しているのでしょう。ですが、日中の業務を遂行しているときは、自己に酔うことだけは戒めて、他者に貢献できているのか、またそれに最大限の努力と知力を動員し、課されて仕事を勤しんでいるかを、自問自答していきたいと思うのであります。

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