アキバのつぶやき
2025.07.05
シカクからジカクへ
夏目漱石の『吾輩は猫である』には、実業家の鈴木君が「ハハハ教師は吞気でいいな」と語る一節があります。もしこの言葉を現代の教育現場で聞けば、多くの教員から「非難の大合唱」が聞こえてきそうです。
「呑気な先生」という誤解と、現場の現実を考えますと、 確かに、昔の教員像には、比較的ゆとりのある職業というイメージがあったのかもしれません。それは、親が思考停止状態で教師を無条件で崇拝していたということがあったのではと思います。先生が言うのだから正しいという、いわゆる全体主義的な思考がはびこっていたと感じてなりません。
しかし、今の日本の教師たちは、その認識とは大きくかけ離れた現実を生きています。それには、モンスターペアレンツという、自己の無知を知としてとらえられず、自己の主張が正とする、未熟な親が増えてきたという一面があると思います。ですので多くの教員は、寝食の時間を削ってまで教育に心を傾け、子供たちと誠実に向き合っています。
しかし、今の日本の教師たちは、その認識とは大きくかけ離れた現実を生きています。それには、モンスターペアレンツという、自己の無知を知としてとらえられず、自己の主張が正とする、未熟な親が増えてきたという一面があると思います。ですので多くの教員は、寝食の時間を削ってまで教育に心を傾け、子供たちと誠実に向き合っています。
近年推進されている学校の「働き方改革」は、まさにこのような献身的な教員たちを支え、彼らが義理を欠かず、人情を欠かず、恥を欠かず、子供たちと向き合い続けられるようにするための取り組みだとされています。世間の認識と現場の実態には、大きな乖離があると思えてなりません。
「資格なき者」が教壇に立つ時代への警鐘として、そうした現場の努力や改革の必要性とは裏腹に、近年、私たちは教員による耳を疑うような不祥事をよく耳にしています。盗撮やわいせつ行為など、教員という立場からは想像もつかない事件が相次いでいます。
日本の将来を担う子供たちを指導し、その成長を見守るべき立場の人間が、その「資格」に反する行為を行うことは、教育現場ひいては社会全体の信頼を大きく損なうものです。
教員が持つべき「資格」とは、単に教員免許という形式的なものだけではありません。子供たちの人格形成に影響を与え、規範となるべき存在として、高い倫理観や人間性、そして責任感が求められます。しかし、相次ぐ不祥事は、一部の「資格なき者」が教壇に立っている現実を示唆し、教員という職の根幹を揺るがしているように感じてなりません。
求められる「真の資格」とはなんでしょうか?それは、どんな職業でも言えますが、「自覚する」ことではないでしょうか。
「呑気な仕事」という過去のイメージと、献身的に働く多くの教員の現実、そして一部の不祥事が示す「資格なき者」の存在。この複雑な状況の中で、社会が教員に求める「真の資格」とは何か、改めて問い直す時期に来ているのかもしれません。
子供たちの未来のためにも、そして誠実に働く多くの教員が誇りを持って職務を全うできるためにも、「教壇に立つ真の資格」を持つ人材を確保し、不適切な者が二度と教壇に立てないような、より厳格な仕組みが求められています。
同時に私たちの不動産業界でも言えることでもあります。宅地建物取引士、一級・二級建築士、賃貸経営管理士、マンション管理士等、たくさんの資格が不動産建設業界に存在します。ですが、資格に安住することなく、顧客の立場に立った倫理観と職業意識を向上していくことが、企業にとって大切な企業理念だと自覚できるかできないかが、これからの企業存続の要諦になるのではないでしょうか。